「カエサルとクレオパトラ」1 カエサルの遺言状

 英語で「The ides of march」としようが、イタリア語で「Idi di marzo」としようが、「3月15日」と書けば、西欧人ならばそれがカエサル暗殺の日であることは、説明の要もないくらいの知識になっているそうだ。カエサルは、紀元前44年3月15日、元老院議場のポンペイウス回廊でマルクス・ブルータス、カシウス等14人によって23カ所の刺し傷を受けて殺害された。いかにもダンディーなカエサルらしいのは、死を悟って、倒れた時に見苦しくならないように、トーガのすそを身体に巻き付けながら倒れ死んだこと。彼自身、自分の目指す帝政実現の意図が理解できず(というより彼の真の意図を理解できたものなど皆無に近かったように思う)命を狙う者たちが多数いることなどもちろん承知していたが、護衛を付けるなどの対策は取らなかった。内乱時に、ポンペイウス側で戦った者たちを、勝ったカエサルが殺さず、命を助けただけでなく去就の自由さえも許した振舞いを、賞賛して手紙を書いてきたキケロに、カエサルはかつてこんな返書を送った。

「わたしをよく理解してくれているあなたの言うことだから、わたしの振舞いにはあらゆる意味での残忍性が見られないというあなたの言は、信用されてしかるべきだろう。あのように振る舞ったことこと自体ですでにわたしは満足しているが、あなたまでがそれに賛意を寄せてくれるとは、満足を越えて喜びを感ずる。

 わたしが自由にした人々が再びわたしに剣を向けることになるとしても、そのようなことには心をわずらわせたくない。何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自分の考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている。」

 しかし、あと4カ月で56歳を迎えるときに人生を終えることは、カエサルにとっても想定外だったようだ。それは半年前の紀元前45年9月15日に書かれた遺言状が示している。その中で、カエサルは自分の後継者に自分の妹の孫にあたるオクタヴィアヌスを指名していた。

「カエサル所有の資産の4分の3は、ガイウス・オクタヴィウスとアティアの息子、オクタヴィアヌスに遺す。・・・第一相続人オクタヴィアヌスは、相続した時点でカエサルの養子となり、息子となった彼はカエサルの名を継ぐ。」

 カエサル暗殺当時の年齢は18歳と6ヵ月。一個大隊の指揮さえもしたことのない病気がちの若者。しかしカエサルは彼の平時の統治の才能を見抜いていた。あと10年もすれば共和政から帝政への移行準備をすべて終えられる。そうすれば、その間に、カエサルの後継者として経験を積んだオクタヴィアヌスに帝政の統治を任せられる、と考えていたようだ。

 この遺言状が公開されてアントニウスが失望したのは当然だろう。カエサルの右腕であり、当時はカエサルの同僚執政官というローマの最高権力者の地位にいたからだ。しかしカエサルは、内乱時におけるその失政ぶりからアントニウスの平時での統治能力をすでに見限っていた。遺言状の内容に誰にもまして失望した人物がもう一人いた。クレオパトラである。その時彼女は、カエサルとの間に生まれた子であるカエサリオンを伴ってローマに滞在していた。カエサルは、遺言状の中でクレオパトラとの間の息子カエサリオンについて、一言も言及しなかったのだ。カエサルからすれば、ローマの将来(それこそなにより彼が大切にしたもの)から考えても、またクレオパトラ母子の利益を考えてもそれは最良の選択と思われたが、クレオパトラにそのようなカエサルの真意は理解できない

 そもそもカエサルとクレオパトラはどのような関係だったのか?それを知ることで、カエサルという人物の凄さ、魅力があらためて浮かび上がってくるように思う。

 (ヴィンツェンツォ・カムッチーニ「カエサルの死」)

(映画「クレオパトラ」1934年 主演クローデット・コルベール 監督セシル・B・デミル)

(映画「クレオパトラ」1963年 主演エリザベス・テーラー)

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