「ヴェネツィア ″Una città unica al mondo″」 5 その魅力⑤
そんな日が来るのかどうかわからないが、絶望的な気持ちに陥り、生きる意欲も枯れ果ててしまったら、きっとヴェネツィアを訪れたくなると思っている。はっきり訪れたい場所がそこにあるからではない。ただ、あの迷路のような小路を歩きたいだけだ。一日中陽も差さない、どこから殺人者が現れても不思議でないような薄暗い小路から、突然開放的な広場が出現するヴェネツィアの街歩き。少し歩けばすぐに現れる橋を上り下りしながら歩いていると、日常世界から遠ざかって行けるように思う。目の前の歩くという行為に集中できるように思う。夜になれば、静寂の中に岸に寄せる波音だけが耳に心地よく響いて来る。静かに来し方行く末に想いをはせながら眠りに落ちることができそうな気がする。
須賀敦子は「ヴェネツィアの悲しみ」(『時のかけらたち』)の中でこんなことを書いている。 「かなりのあいだ、ヴェネツィアは私にとってひたすら「夢のような」都市であり、島であった。夢のような、と形容するとき、ひとはふつう悪夢につなげて考えない。なんらかの意味で日常を忘れさせ、それから受けた傷を癒してくれるようなものや場所を、夢のような、というのではないか。そういった意味で、ヴェネツィアは、なによりもまず私をなぐさめてくれる島だった。島に渡る、というだけで、私は個人的な不幸にみまわれた大陸からはなれて、ちょうどあたらしい段落をたてて気持ちを改めるときのように、それ以前のどろどろから解放され、洗いきよめられた。六九年の休暇をヴェネツィアの対岸にあるリドの浜ですごしたときも、そうだった。その夏滞在したリドの島の突端の辺鄙な村は、大陸はもちろん、ヴェネツィアからさえも隔てられていて、その分、思い出したくない記憶から私を護ってくれた。」
1969年の夏とは須賀にとってどんな夏だったのか? 「1968年の私のリドは、しかし、そんな華やかさすべてを、錆びた小刀の刃でギシギシとけずりとったようにうらぶれていた。」
どういうことか?1958年にイタリア(ローマ)に渡った彼女は、1960年ミラノに転居し、1961年11月、ジュゼッペ・リッカと結婚。しかしジュゼッペは1967年6月、41歳で死去。わずか5年7カ月の短い結婚生活だった。その年の8月には母危篤の知らせを受けて帰国。母はもちなおしたが、9月16日、はじめての内孫だった須賀をかわいがって育ててくれた祖母が息をひきとる。彼女は、1年前に手術した癌がいつ再発するかわからない父を一人残して、翌年の5月、がらんとしたミラノの家に戻る。 「私は仕事らしい仕事もなく、あせるうちにはやばやと夏が来た。ただ、うろうろしていたようにも思う。道を歩いていても景色が目に入らず、意志だけに支えられて、からだを固くして日々を送っていた。」
この年の夏、友人に誘われてリドのアルベローニという小さい村のペンションに行くが、途中でほんとうのヴェネツィアの顔を見たくてヴェネツィアに宿をとる。いつのまにか眠ってしまった彼女は、ふと物音で目がさめる。
「じっと聴いているうちに、それが窓の外から聞こえてくる水の音だと分かった。運河の水が岸にあたっている、そこまではよかったが、その水音は、もうひとつの、まったく自分には想像のつかない摩擦音を伴っていた。なんだろう、といろいろ考えた・・・私はあの摩擦音が、舟の舳先が波の上下につれて岸辺の石にこすれる音であることを突きとめた。それはスタンダールやアッシェンバッハの劇的なヴェネツィアとはほど遠い、そしてあの汗と喧噪に満ちた昼間のヴェネツィアには似ても似つかない、ひそやかでなつかしい音だった。何時ごろまで、その音がつづいたのだろうか。私はその音を聴きながら、なにかほっとしてまた眠りに落ちたのだった。」(『ミラノ 霧の風景』「舞台のうえのヴェネツィア」)
そして、ひとりで出かけたトルチェッロ島のサンタ・マリア・アッスンタ大聖堂で堂々として逞しい聖母像と出会う。
「金で埋められた空間の中央と思われるあたりに、しぶい青の衣をまとった長身の聖母が、イコンの表情の幼な子を抱いて立っている。聖母も、イコン独特のきびしい表情につくられていた。その瞬間、それまでに自分が美しいとした多くの聖母像が、しずかな行列をつくって、すっと消えていって、あとに、この禁色にかこまれた聖母ひとり、残った。これだけでいい。そう思うと、ねむくなるほどの安心感が私を包んだ。」(『地図のない道』「地図のない道」)
しかし彼女は教会の中に長くは留まっていられない。
「外に出て夏を探し、夏が大きな安全ピンのように魂をしっかりとからだに留めてくれると、また中に戻った。」「きつい照り返しの午後の太陽が傾きはじめて、もう閉めますから、と堂守が鍵を手にやってくるまで、私は、なんども暗い聖堂に戻った。」
小学校からミッションスクールに通い、カトリックの教育を受けた須賀が、どのようなプロセスで生きる気力を回復していったのかはわからない。しかし、ヴェネツィアでの体験が作用したことは確かだろう。
(ヴェネツィア本島)
(トルチェッロ島 サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂)
(トルチェッロ島 サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂 聖母像)
(トルチェッロ島 サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂 聖母像)
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