「ヴェネツィア ″Una città unica al mondo″」 2 その魅力②

 「最近数年間というものは、まことに一種の病気のような状態で、それを癒しうるのはただこの眼をおってこの地を眺め、この身をもってここに移すことだけであった。今となれば白状してもよいが、ついには一巻のラテン語の書も、一枚のイタリアの風景画すらも、これを眺めるに堪えなくなった。この土地を見たいという欲望は、まさに成熟の度を通り越していたのだ」

 これはゲーテが1786年1月1日、初めてローマに入った時に、自分のイタリアへの憧れの強烈さを記した『イタリア紀行』の文章だ。ゲーテのイタリアへの関心は、少年のころ、故郷フランクフルトにおいて父親の愛蔵していたゴンドラの模型によって萌していた。だからパドヴァから乗合船でブレンタ河をくだり、潟(ラグーナ)にのり入れようとした時の思いをこう記している(1786年9月28日)。

「私の乗っている船のところへ初めてゴンドラがやってきたとき―――それは先を急ぐ旅客を素早くヴェネチアへ連れてゆくためであるが―――私は恐らく二十年来思い出したことのない、あの昔の玩具を心に浮かべた。私の父はイタリアから携えてきた美しいゴンドラの模型を持っていた。父はそれをひどく珍重していたが、いつか私がそれを弄ぶことを許された時などは、非常に喜んだものだ。今、ぴかぴか光る鉄板の船首や、黒いゴンドラの船体や、すべてのものが昔馴染のように私に挨拶をした。私は久方ぶりになつかしい少年時代の印象を味わうことができた。」

 ヴェネツィアがオーストリアに支配されていた1846年、ヴェネツィア本島は4キロほど離れた本土と鉄道で結ばれた。それまでは、ヴェネツィアを訪れるには、『ヴェニスの商人』のポーシャから、モンテーニュ、ゲーテに至るまで、フィクションと実在の人物を問わず、すべて船の旅だった。パドヴァからブレンタ河をゆっくりと船で下ってゆく。

「両岸は農園や別荘で飾られており、小さな村が水際まで迫っているところがあるかと思うと、ところによっては人通りの多い国道が岸辺に沿って走っている。河を下るには水閘(すいこう。運河・河川などで、水位差のある水域を船が通行できるようにした設備)によるので、船はいくたびか停まる。その暇を利用して、われわれは陸に上って見物もできれば、豊富に提供される果物を味わうこともできる。それからまた船に乗り込んで、豊饒な、活気のある、生き生きした世界を通ってゆくのだ。」(『イタリア紀行』1786年9月28日)

 そしてラグーナへの出口にあるひなびた港、フジーナでゴンドラに乗り換えて、ヴェネツィアに向かった。  船でヴェネツィアに向かうルートはもう一つあった。『ヴェニスに死す』の主人公アッシェンバッハが取ったルートだ。アドリア海から直接、リドの潟口を通ってヴェネツィアの港に乗り入れる方法だ。ヴェネツィア共和国が隆盛を極めた時代の雰囲気を味わうにはこれが一番だったろう。近づくにつれ、大小の舟のにぎわいがひときわ増し、サン・マルコ広場の華やかさ、サン・ジョルジョ・マッジョーレの大伽藍の白い石の輝きが現れてくる。まさに詩的で劇的な水の都との出会い。

 現在もマルコ・ポーロ空港近くから船でヴェネツィアに入ることができる。2006年にヴェネツィアを訪れた時はこのルート使った。しかし、感激はなかった。船が進むにつれて眼に入ってくるヴェネツィアは表玄関ではなく地味な裏側だから。これなら、列車の方がいい。ミラノより寒いと言われる冬のヴェネツィアを訪れた大竹昭子が見事に表現している。

「そろそろヴェネツィアに到着かと思うころ、車窓の右も左も幕を切って落としたように一面の海になった。眼にするものすべてが灰色のフィルターをかけたように霞んでいる。空と海の境があいまいで、のっぺりした海がどこまでもつづいていた。一瞬、この先にヴェネツィアがあるのだろうかと不安になった。このまま列車ごと海の中に消えて行きそうだった。」(『須賀敦子のヴェネツィア』)

( ヴェネツィア島と本土のメストレ地区とを結ぶ鉄道橋とリベルタ橋)

(ラグーナからの眺め)

(サン・ジョルジョ・マッジョーレ島)

(カナル・グランデのゴンドラ)

(ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン「ローマ近郊におけるゲーテの肖像画」)

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