夏目漱石と20世紀初頭のロンドン12 ドラローシュ「ジェーン・グレーの処刑」

 ロンドンに到着して3日後の1900年10月31日、漱石はロンドン塔を訪れる。現在では、ロンドンの数ある史跡の中で最も人気の高い観光スポットとして、連日大勢の観光客が押し寄せているが、漱石が訪れた当時は、観光客も少なく、静かに思う存分想像力の羽根を拡げながら見学を満喫できたことだろう。そして、この日のロンドン塔の見学をもとに、1905年『帝国文学』1月号に「夏目金之助」の名で寄稿したのが幻想的な短編小説『倫敦塔』である。

「倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである。過去と云ふ怪しき物を蔽へる戸張が自づと裂けて龕中の幽光を二十世紀の上に反射するものは倫敦塔である。凡てを葬る時の流れが逆しまに戻って古代の一片が現代に漂ひ来れりとも見るべきは倫敦塔である。人の血、人の肉、人の罪が結晶して、馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。」(『倫敦塔』)

 漱石がロンドンの建造物で強烈に惹きつけられたのは、大英帝国の進化のシンボルとして偉容を誇る議会でもウェストミンスター寺院でもなく、ロンドン・ブリッジや大英博物館でもなく「物憂げに見える、眠っている、皆過去の感じである。そしてその中に冷然と二十世紀を軽蔑するように立っている」(『倫敦塔』)ロンドン塔だった。そして、漱石に限ったことではないが、ロンドン塔を訪れる者の最終的な目的はボーシャン塔。なぜなら、そこには幽閉された女王や貴族、僧侶たちが自らの名前や家紋、聖書の章句などを壁に刻み込んだエピグラフが91点残されているからだ。

「倫敦塔の歴史はボーシャン塔の歴史であって、ボーシャン塔の歴史は悲酸の歴史である。十四世紀の後半にエドワード三世の建立にかかるこの三層の塔の一階室に入るものはその入る瞬間に於て、百代の遺恨を結晶したる無数の紀念を周囲の壁上に認むるであろう。凡ての(うらみ)、凡ての憤(いきどおり)、凡ての憂と悲みとはこの怨、この憤、この憂と悲の極端より生ずる慰籍と共に九十一種の題辞となって今になお観る者の心を寒からしめて居る。冷やかなる鉄筆に無情の壁を彫ってわが不運と定業(じょうごう)とを天地の間に刻み付けたる人は、過去といふ底なし穴に葬られて、空しき文字のみいつ迄も娑婆の光を見る。」(『倫敦塔』)

 そして、この91点のエピグラフの中で、漱石が最も衝撃を受け、幻想を大きく膨らませたのは、悲劇の女王ジェーン・グレーの「JANE」とのみ彫られたエピグラフ。ジェーン・グレーは、ヘンリー7世の曽孫で、ノーサンバランド公の野心のため、公の第四子ギルドフォード・ダッドレーと結婚させられ王位を継ぐが、国民の反対にあって在位して九日目に捕らわれ、ロンドン塔に監禁され、17歳の若さで処刑された悲劇の女王である。

「女は白き手巾(ハンケチ)で目隠しをして両の手で首を載せる台を探すような風情に見える。首を載せる台は日本の薪割り台ぐらいの大きさで前に鉄の環が着いている。台の前部に藁が散らしてあるのは血を防ぐ要慎(ようじん)と見えた。・・・坊さんが、うつ向いて女の手を台の方角へ導いてやる。女は雪のごとく白い服を着けて、肩にあまる金色の髪を時々雲のように揺らす。・・・女はようやく首斬り台を探し当てて両の手をかける。唇がむずむずと動く。・・・やがて首を少し傾けて「わが夫ギルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか」と聞く。肩を揺り越した一握りの髪が軽くうねりを打つ。坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真(まこ)との道に入りたもう心はなきか」と問う。女屹(きっ)として「まこととは吾と吾夫の信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何も言わずにいる。女はやや落ちついた調子で「吾夫が先なら追いつこう、後ならば誘うて行こう。正しき神の国に、正しき道を踏んで行こう」と云い終って落つるがごとく首を台の上に投げかける。眼の凹(くぼ)んだ、煤色の、背の低い首斬り役が重た気に斧をエイと取り直す。余の洋袴(ズボン)の膝に二三点の血が迸ると思ったら、すべての光景が忽然と消え失せた。」(『倫敦塔』)

 この生々しい記述を漱石はある絵にもとづいて書いたとされる。それは漱石がテート・ギャラリーデ見た ドラローシュ「ジェーン・グレーの処刑」だ。2017年7月開催の「怖い絵展」のメイン作品だった絵である。

 (ロンドン塔とタワー・ブリッジ)

(ポール・ドラローシュ「レディ・ジェーン・グレイの処刑」ロンドン ナショナル・ギャラリー)

(ボーシャン塔)

(「JANE(ジェーン)」のエピグラフ)

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