夏目漱石と20世紀初頭のロンドン10 紅茶

 イギリスの食生活の中で、一番豪華なのは朝食だと相場は決まっている。サマセット・モームはこう言った。

     「イギリスで美味しい食事がしたければ、1日に3回朝食を取ればいい」

 漱石はブレット家(ロンドンでの3回目の下宿)の朝食の献立についてこう記している。今のフランス、イタリアの一般家庭の朝食と比べてもしっかりしている。

「例の如く『オートミール』を第一に食ふ。これは蘇格土蘭人(スコットランド)の常食だ。もっともあっちでは塩を入れて食ふ 我々は砂糖を入れて食ふ。麦の御粥(おかゆ)みたようなもので我輩は大好だ。「ジョンソン」の字引には『オートミール』・・・蘇国にては人が食い英国にては馬が食うものなりとある。しかし今の英国人としては朝食にこれを用いるのが別段例外でもないようだ。英人が馬に近くなったんだろう。それから『ベーコン』が一片に玉子一つまたはベーコン二片と相場がきまっている。そのほか焼パン二片茶一杯、それで御仕舞だ。」(『倫敦消息』)

 ところで、漱石は1901年2月4日の日記にこんなことを書いている。

「うちの女連は一日に五度食事をする 日本では米つきでも四度だ これには驚く その代わり朝から晩まで働いている」

 この五度の食事とはどういうことか?実は、そのうちの二度は午前と午後のお茶である。この下宿の女性たちは、掃除や食事の支度などに一日中かかりきり。だから午前と午後のお茶の時間に、いくらかお腹にたまるような軽食をとっていたのだろう。イギリス人のお茶好きは有名。多い人は一日7,8回お茶を飲む。早朝のアーリー・モーニング・ティ、朝食のモーニング・ティ、11時のイレヴンズィズ、昼食と3時半のティ、5時半頃のハイ・ティ、それに夕食と就寝前のティ。 このうち「アフタヌーン・ティ」と呼ばれる習慣は、19世紀中頃の1840年代に、ベドフォード公爵夫人アンナによって始められたとされる。その時代のイギリスの上流家庭での夕食の時刻は、だいたい夜の8時、9時というのが普通だった。すなわち昼食から夕食の時間が長すぎたたために、空腹を覚える人が多く、そこでアンナが午後の3時か4時頃、軽い食事(バター付きパンやビスケットのような)とともに、ポット・オブ・ティを用意すると、やがてこのような午後の紅茶は、たちまち一種の社会的流行となったのだ。そして公爵夫人の午後のティ・テーブルには、刺繍などレースをほどこした白い木綿のクロスが敷かれ、銀製ポット、ティ・スプーン、ボーン・チャイナのカップ、銀の茶こし、ミルク入れ、あるいはサンドウィッチ用の皿、ケーキ・スタンドなどが、やがて揃うことになるのである。そしてこの時代の人々にはヴィクトリア女王が範を示したとされる、良い家庭に対する強い憧憬があって、アフタヌーン・ティの機会はそのようなマイ・ホーム志向の中流階級の人々の間にも広がっていったのである。

 ところで江戸っ子であり「倫敦(ロンドン)に住み暮らしたる二年は尤(もっと)も不愉快の二年なり」とまで書いた漱石の帰国後の朝食に驚かされる。長男で音楽家の夏目純一が、『父の周辺』のなかでこう書いている。

「朝食は……父だけはパンだった。僕らが味噌汁で父は紅茶だ。自分でバタをたっぷりつけて、たべているのが、うまそうに見えた。ぼくらもそれを貰いたいので、早く食べてしまって、くれるのを待っていた」

 帰国後漱石は、大学の講師(英文学)をしていたが、教え子たちを自宅に集めて、紅茶を振る舞っていた。また漱石の小説にも、紅茶のことがたびたび登場する。

「『ハハハハ面白い事があるんだよ。糸公……』といい掛けた時紅茶と西洋菓子が来る。 『いやあ亡国の菓子が来た』」(『虞美人草』)

「約三十分の後彼は食卓に就いた。熱い紅茶を啜すすりながら焼麺麭に牛酪(バタ)を付けていると、門野という書生が座敷から新聞を畳んで持って来た。」(『それから』)

「奥さんは手に紅茶茶碗を持ったまま、笑いながらそこに立っていた。・・・私はそこで茶と菓子のご馳走になった。・・・奥さんは飲み干した紅茶茶碗の底を覗いて黙っている私を外らさないように、『もう一杯上げましょうか』と聞いた。」(『心』)

 食の好みひとつとっても漱石という人物、一筋縄ではいかない。

(ロンドンの下宿における典型的な夕食の風景)

(19世紀 アフタヌーン・ティを楽しむ女性たち)

(19世紀 アフタヌーン・ティを楽しむ女性たち)

(1846年 ヴィクトリア女王一家)

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