「生きるとは」9 ヘルマン・ヘッセ『デミアン』③
それまで自分が慣れ親しんだ世界の崩壊は一つの死であり、そこには苦痛が伴う。
「私は自分の世界、自分のよい幸福な生活が過去となり、自分から離れてしまったのを、こごえる心をもってながめずにはいられなかった。また、自分が新たな吸根をもって外のやみの中に、未知のものの中に、根をおろし、定着しているのを感ぜずにはいられなかった。はじめて私は死を味わった。死の味はにがかった。死は誕生であり、恐るべき更新にたいする不安と憂慮なのだから。」
この不安、憂慮の中を生き抜くためには、それを理解、共感し、支えてくれる他者、導いてくれる他者(共感的他者、共闘的他者)の存在が不可欠。親友、先輩、師。シンクレールの場合はそれがデミアンだった。 「彼はあらゆる点でみんなと違っていた。彼はまったく独特な個性的な特徴を持っていた。」
デミアンは、旧約聖書のなかで人類史上最初の殺人者として描かれる「カイン」について、シンクレールがそれまで理解していたのとはまるで異なる解釈をしてみせる。まず、アダムとエバの子カインとアベルについて聖書はこう記述する。
「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。・・・カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。・・・ 主は言われた。
『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産みだすことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。』
カインは主に言った。『わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。』
主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」
このカインのことをデミアンは「すてきなやつだった」と言う。そして「しるし」についてもこう説明する。
「実際は郵便のスタンプみたいなしるしが額の上にあったわけじゃない。そんなにひどいことはめったにない。むしろ、人々が見慣れているよりはいくらかよけいに才知と大胆さが目つきの中に現れているといったふうに、ほとんど目につかない、なにか気味悪いものがあったのだ。この男が力を持っていて、人々に怖れられていた。そこで、彼は〈しるし〉を持っているということになった。」
古い世界から抜け出しつつあったシンクレールにとっては惹きつけられるどころか、衝撃そのもの。危険な考え、悪魔のことばと感じられたことだろう。
「彼が言ったことはすべて、まったく信じられないように思われた。カインが気高い人間で、アベルが臆病な人間だなんて!カインのしるしが表彰だなんて!それは不合理で、神をけがすものであり、だいそれたことだった。そうだとすれば、神はどこにいるのか。神はアベルの犠牲を受け入れはしなかったか。神はアベルを愛していなかったか。—――いや、ばかなことだ!デミアンは私をからかい、計略にのせようとしたのだ、と私は推測した。」
しかし、内容はともかく、その話しぶり、異様に輝く「おとなのような、忘れられない目」に魅力を感じる。 「デミアンがああしたことを話す、その話し方、すべてが自明であるかのように、すらすらと、みごとに、しかもあの目つきで話す、その話し方は気持ちがよかった。」
(アゴスティーノ・チャンペッリ「カインとアベル」フィレンツェ トルナブオーニ宮)
(ルーベンス「カインとアベル」ロンドン コートールド美術研究所)
(ヘッセ「デミアン」)
0コメント