「生きるとは」10 ヘルマン・ヘッセ『デミアン』④
デミアンは、シンクレールにそれまで彼が思い描いたこともなかったような考えをもたらしたわけではない。それまでシンクレール自身が抱きながら、父の考え、「明るい世界」から禁じられているがゆえ秘密にしていた考えなのだ。それは、「ふたりの罪人」(イエスとともに十字架に架かった)についてのデミアンの解釈を聞いたときのシンクレールの反応からも明白だ。まず聖書の記述(「ルカによる福音書」23章39-43節)。
「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」
たとえどんな罪を犯した人間だろうと、悔い改めたもの(たとえそれが死の直前であろうと)は救われるということを示した話として扱われるが、デミアンは「カインとアベル」の物語同様全く異なる解釈を示す。
「もしきみがきょうふたりの罪人のうち、ひとりを友だちに選ばなければならないとしたら、あるいはふたりのうちどちらを信用することができるかを考えねばならないとしたら、この哀れっぽい改宗者のほうじゃないことはたしかだ。いや、もうひとりのほうだ。そいつはいっぱし男で、性根を持っている。彼は改宗なんか歯牙にもかけない。改宗は、彼の身の上になってみれば、体裁のいいお題目にすぎないんだ。彼は彼の道を最後まで歩み、最後の瞬間になって卑怯にも、それまで彼を助けてきた悪魔と手を切ったりなんかはしない。彼は性根のあるやつだが、性根のある人間どもは、聖書の物語の中ではとかく損をしがちだ。たぶん彼もカインの子孫なんだろう。きみはそうは思わないか」
シンクレールがめんくらうのは当然だ。しかしデミアンは神を否定し、悪魔に従えなどと言っているわけではない。
「旧約と新約の・・・神はよいもの、気高いもの、父らしいもの、美しいものであり、高いもの、多感なものである。—――まったくそれでけっこうだ。しかし世界はほかのものからも成り立っている。そして、それはすべてむぞうさに悪魔のものに帰せられている。世界のこの部分全体、この半分全体が、ごまかされ、黙殺されている。彼らは神をいっさいの生命の父とたたえながら、生命の基である性生活というものをすべてどんなにむぞうさに黙殺し、あるいは悪魔のしわざだとか、罪深いことだとか、説明していることだろう!あのイェホヴァの神をあがめることにぼくはすこしも、露ほども異議はない。だが、この人工的に引き離された、公認された半分だけでなく、全世界を、いっさいをあがめ重んじるべきだ、とぼくは思うんだ。」
デミアンによってクローマーに付きまとわれる苦しみから解放され、再び以前の明るい世界に逃げ戻ろうとしていたシンクレールには衝撃だった。しかし、それだけではなかった。シンクレールは思う。
「だが、彼のことばは、私の少年時代を貫く難問に関係していた。それは、私が一刻も離れたことなく、しかもだれにもひとことも話したことのないだった。デミアンがさっき神と悪魔、公認された神の世界と黙殺された悪魔の世界とについて言ったことは、まったく私自身の考え、私自身の神話、すなわち—――明暗、二つの世界、あるいは二つの半球の考えそのままだった。」
ここでは、「明るい世界」の中核にキリスト教があるため、「暗い世界」が「悪魔の世界」と表現されているが、間違えてはいけない。デミアンが言っているのは、自分自身の中から生まれてくる感情のうちで、性的欲望など公認された神の世界に反するものを「悪魔の世界」と表しているのだ。大切なことはこうだ。
「自分で考え、みずから裁き手になるには気楽すぎる人は、しきたりになっている禁制に順応する。そのほうがらくなのだ。他方また、自己の中におきてを感じている人もある。その人たちにとっては、れっきとした人がみな日常やっていることが禁じられているのだ。そして、ほかの人には厳禁されていることが、彼らには許されている。めいめい自分で責任を持たなければならないのだ」
(フェルナン・コルモン「カイン一族の逃亡」オルセー美術館)
先頭にいるのがカイン。「しるし」によって命の保証を得たとはいえ、どれほど厳しい境遇に落とされたことか。
(マンテーニャ「キリストの磔刑」ルーヴル美術館)
向かって左側が「善い罪人」、右側が「悪い罪人」
(ヘッセ「デミアン」)
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