「生きるとは」8 ヘルマン・ヘッセ『デミアン』②

 『デミアン』の第1章のタイトルは「二つの世界」。主人公シンクレールが10歳で、小さい町のラテン学校に通っていた頃の体験談から話は始まる。それまで彼が属していた「一つの世界」は父の家。

「それは父と母、愛と厳格、模範と教えとにほかならなかった。この世界にはなごやかな輝きと明朗さと清浄さがともなっていた。ここには、穏やかな親しみのあることば、洗われた手、清い着物、よいしつけなどがつきものだった。ここでは、朝の讃美歌が歌われ、クリスマスが祝われた。この世界には、未来に通ずるまっすぐな線と道があった。義務と罪、やましい良心とざんげ、ゆるしと善意、愛と尊敬、聖書のことばと知恵とがあった。明るい清らかな、美しい、整った生活をするためには、この世界を離れてはならなかった。」

 しかし、この世界の近くにもう一つの世界が隣り合っていた。

「そこには、並外れた、そそのかすような、恐ろしい、なぞめいたことが、色とりどりに無数にあった。屠殺場と監獄、酔っぱらいと口ぎたなくののしる女、お産する雌牛、倒れた馬などのようなもの、押込み強盗、殺人、自殺などの話があった。こうしたさまざまの、美しい、気味悪い、乱暴なむごいことは、そこらじゅうで、隣の路地や家でも行われていた。」

 シンクレールは、この第二の世界をどのように眺めていたか?

「いたるところでこの第二のはげしい世界はわきたち、におっていた。いたるところで。父と母のいる私たちのへやを除いて。それはたいへんありがたいことだった。私たちのところに平和と秩序とおちつきと、義務とゆるしと愛とがあるのは、すばらしいことだった。」

 しかし、それだけではない。決して否定的にのみ捉えていたわけではない。そこには第一の世界にない魅力が感じられた。

「私はときおり、なによりも好んで、禁じられた世界で暮らした。そして、明るい世界に帰ることは—―たとえそれがきわめて必要であり、ありがたいことであったとしても—―美しさの乏しい、より退屈な、より味気ない世界へのあともどりのようであることさえ珍しくなかった。」

 10歳を越えるか越えない頃、シンクレールの仲間に、第二の世界に生きるフランツ・クローマー(「13歳くらいの強い荒っぽい子」)が加わり、シンクレールたちに命令を下すようになる。ある日、シンクレールはクローマーに気に入られようとして「おおげさな泥棒の話を考え出し、自分自身をその主人公」にしてしまう。「それはほんとうか」とクローマーにたずねられたシンクレールは「天地神明にかけて」果樹園からリンゴを盗んだことを誓ってしまう。それをクローマーは脅しの材料に使う。金を要求する。シンクレールの生活は破壊されてしまった。父の家、明るい父母の世界はもう自分のものではなくなってしまった。

「私は罪を負って深くよその流れの中に沈み、冒険と罪にまきこまれ、敵におどされ、危険と不安と汚辱とに待ち受けられていた。・・・私の罪悪が盗みであったか、あるいはうそであったか(私は天地神明にかけて偽りの誓いをしてしまったではないか)――それはどちらでも同じことだった。私の罪はそのいずれかではなかった。なぜ私は父に従うより以上にクローマーに従ったのか。なぜ私はあの盗みの話をこねあげたのか。それが英雄的な行為ででもあるかのように、なぜ私は罪悪を自慢したのか。いまはもう悪魔が私の手をつかまえていた。」

 幼少年期に形づくられた精神世界が強固であるほど、芽生え始めた自我はそれと激しくぶつかる。当初は、自我の目覚めに驚き、恐れをなしそれを抑え込み、明るい世界(古い世界)に退却しようとさえする。しかし、それで感情の満足は得られない。古い世界に入ったひびは修復などできない。破壊して、新たな世界を築くことでしか解決はできないのだ。

「それは父の尊厳に加えられた最初のひびであった。私の子ども時代の生活の土台になっていた柱に加えられた最初の切り込みだった。しかしその柱は、すべての人が自己自身になりうるためにはまず破壊されねばならなかった。」

(ヘルマン・ヘッセ)

 (ヘルマン・ヘッセ『デミアン』)


(ヘルマン・ヘッセ『デミアン』) この表紙は、内容の本質を描いていないように感じるのだが

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