「生きるとは」7 ヘルマン・ヘッセ『デミアン』①
子どもから大人への自立の過程は、「幼少年期に形成された自己を解体し理想的自己に向けて自己を再編成していく過程」ととらえるのが自分にはぴったりくる。幼少年期に形成される自己は、主に親の価値観、世界観に基づく。多くの場合それと一致している学校も大きな影響力を及ぼす。ヘルマン・ヘッセの場合、祖父も父も宣教師、母も宣教師の娘、14歳でマウルブロン神学校に入学、となるとそこで形成された自己はかなり強固なもの。しかし、肉体が成長するとともに、性を含め新たな感情が目覚めてくる。生活領域の拡大は、新たな出会い、経験をもたらし、感情世界をひろげる。それがそれまでの自己とぶつかりはじめる。思春期・青年期的葛藤の始まりだ。幼少年期の自己が強固であり、かつ感受性が強く感情世界の拡大を人一倍敏感に感じ取る個性にとっては、まさに疾風怒濤時代の始まり。ヘッセの場合がそうだった。マウルブロン神学校から、入学して半年で脱走。両親は知り合いの牧師に依頼して悪魔払いを受けさせるが、効果はなし。その後、ヘッセは、自殺未遂を図り、シュテッテン神経科病院に入院。退院後、カンシュタットのギムナジウムに入学するが、その学校も退学。それから、本屋の見習い店員となるが、ここも3日で脱走。
程度の違いはあれ、思春期・青年期というのは人生における疾風怒濤時代。教育に携わる人間は、この時期について自分なりのイメージをもっていないと生徒対応に苦しむことになる。自分が苦しむだけならいい。自立を求めて模索し、葛藤する子どもに共感的、共闘的に関わることができず、逆に排他的、抑圧的に向き合い、子どもから拒絶され、場合によっては子どもの成長の芽をつぶしてしまう。残念ながら今の多くの教師がこうなのだ。ヘッセの『デミアン』は、キリスト教に対する理解がないと難解な要素も多い小説だが、思春期・青年期を理解することを願う人間にとっては必読書だと思う。自身が激しい疾風怒濤時代を生き抜いたヘッセにして初めて書けた小説だろう。
冒頭にいきなりこんな一文が登場。
「私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。」
次の「はしがき」にはこんな文章。
「すべての人間の生活は、自己自身への道であり、一つの道の試みであり、一つのささやかな道の暗示である。どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった。しかし、めいめい自分自身になろうとつとめている。ある人はもうろうと、ある人は明るく。めいめい力に応じて。」
真に自己自身になることは容易なことではないが、自己に忠実でない生き方は多くの不幸の源にもなっているように思う。
「わたしがおのれの人間的本姓のすべてに逆らって行動した場合には、わたしの心の安静の可能性、おのれに満足する可能性を永久に失うことになり、おのれの生活全体を傷つけることになるだろう」(チェルヌイシェフスキー『何をなすべきか』)
原因が把握できなければ解決策は見いだせない。『デミアン』にそって、真に自己自身になること、自己に忠実に生きることがなぜ困難なのか、何がそのような生き方を阻害するのかを見てみたい。
(ヘルマン・ヘッセ)
(ヘルマン・ヘッセ)
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