「生きるとは」6 マルタン=デュ=ガール『チボー家の人々』

 20代に大きな影響を受けた本の一つ『チボー家の人々』。1922年―1940年作で全8部11巻からなる大河小説。敬虔なカトリック教徒で実業家のオスカル・チボーの2人の息子、アントアーヌとジャック、ジャックの友人でプロテスタントの家庭の息子ダニエルの3人の若者を中心に展開。アントアーヌは秀才で将来を嘱望される医師で現実主義者として、ジャックは成功者で典型的なブルジョアの父親に反抗し少年院に入れられてしまう理想主義者として、ダニエルは、母親である美しいフォンタナン夫人の寵愛を一身に受ける、ませた享楽主義者として描き出され、最初の6巻では、これら3人の主人公がどのようにしてそれぞれ異なる三つの人格を形成していくかが物語られる。そして、第七巻の『1914年夏』(この巻で、マルタン=デュ=ガールは、1937年ノーベル文学賞を受賞)になると、焦点は、ジャックとアントアーヌに絞られ、2人を通じて大戦直前の緊迫した社会の動きが小説の前面に出てくる。そしてこの巻のあとに、そのような歴史への批判の形で『エピローグ』がくる。そこに書かれている、死を前にしたアントワーヌの文章が20代の悩める自分に強烈に響いた。彼は、フランス人としての責務によって戦地に軍医として赴き、そこでイペリットガスに肺を侵され、ながい闘病の末自殺することになるのだが。

「おれの言うことを聞くがいい。天分なるもの!これについて一つの例をとろう。おまえは十歳、十二歳のころ、冒険談に熱中しながら、自分には、船乗りなり、冒険家なりの天分があると思いこんだことがあるだろう。そしていま、じゅうぶん分別のできているおまえは、そのことを思って定めし大笑いするにちがいない。ところがだ。十六歳、十七歳になったいま、おまえはやはりおなじようなあやまりにねらわれているのだ。気をつけるがいい。そして、おまえ自身の好みを警戒しなければ。たまたま書物なり人生なりの中において、おまえが、詩人とか、偉大な実業家とか、恋人たちとかを賛嘆するようなことがあったにしても、これを移して、軽々しく、自分が芸術家であり、ないし偉大な恋愛の犠牲者であるなどと考えてはいけない。自分の性質の本質がなんであるか、それをたんねんに求めてみなければ。自分の真の性格を、すこしずつ発見するようにつとめるのだ。ところが、これはやさしいことではない!多くの者は、ずっと後になってからようやくそれに成功する。また、多くの者は、ついに成功しないでおわってしまう。そのためには、じゅうぶんな時をかけなければ。何もいそぐにはあたらない。自分がそもそも何者であるかを知るためには、長い模索を必要とする。だが、いったん自分がつかめたとなったら、時をうつさずあらゆる借り着をすててしまうがいい。限られ、欠点を持ったものとしての自分自身をみとめるのだ。そして自分を、その正しい目的へ向かって、健康に、正常に、なんのけれんも用いないで発展させようとつとめるのだ。みずからを知り、みずからを認めるということ、つまりは、必ずしも努力を、また完成を思いあきらめることではなく、むしろその逆なのだ!それこそは、みずからの最大限に到達する絶好の機会を持つこと、とさえ言えるのだ。というわけは、そうあってこそ、感激が、はじめてその正しい方向、すなわち、あらゆる努力が実を結ぶ正しい方向へ向けられることになるからなのだ。力の限り、みずからの視野を広げるように努めるのだ。だが、それも自分の持って生まれた視野でなければならない。そして、その視野が、はたしてどんなものであるかをよく理解したうえでなければ。人生に失敗する人たちとは、もっとも多くの場合、出発にあたって、自分自身の性格について思いあやまり、自分のものでない道に迷い込んだ人たち、または、正しい方向へ向かって出発しながら、自分の力の限界にふみとどまることを知らなかった人たち、あるいはまた、そうした勇気を持たなかったところの人たちなのだ。」

「自分の本性」に従って生きることの大切さ、「自分の限界」を知り踏みとどまる勇気を持つことの大切さを教えられた。孫子は「彼を知り己を知らば、百戦殆(あや)うからず。」と言ったが、己を知ることは容易なことではない。

 (マルタン=デュ=ガール)

(マルタン=デュ=ガール)

(『チボー家の人々』)

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