ビスマルクとドイツ統一15 ドイツ統一②

 1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」にて、プロイセン王ヴィルヘルム1世が皇帝に即位し、ここにドイツ帝国が誕生した。それは、ウィーン体制下にあって抑圧され続けてきたドイツ・ナショナリズムの悲願が、オーストリアを排除しプロイセン王国を中心とする「小ドイツ」という形でようやく実現した瞬間であった。その最大の功労者はもちろんビスマルク。このことは、各地で建立されていく彼の大小さまざまな立像を通じて語り継がれていった。しかし、ドイツ統一はビスマルクが当初からめざしていたものではない。

 彼はナショナリズムの時代にあってもなお、プロイセン主義を奉じ、自らの権益を守るためにも、伝統的なスタイルにこだわるユンカー政治家であった。そんな彼が目指していたのは、中央ヨーロッパにおいてオーストリアに匹敵する形でプロイセンを大国化することであり、具体的には「大プロイセン」として北ドイツにプロイセンの覇権を確立することであった。その際、彼はオーストリアに対抗するにあたって、ドイツ・ナショナリズムを味方につけ、利用しようとした。確かにその効果は大きかった。普墺戦争に勝利したことでナショナリズムを刺激されたプロイセンを始めドイツ各地の世論の後押しを受ける形で、彼は北ドイツにおけるプロイセンの領土と勢力を大きく拡大させ、北ドイツ連邦としてプロイセンの覇権確立に成功したのである。しかし、たとえ彼が手段としてしか見なしていなかったとしても、そのナショナリズムの支援を受けてしまったがために、彼は必然的にドイツ統一事業をその後の政策目標に掲げざるを得ない状況に追い込まれてしまった。その結果、普仏戦争の勝利によってプロイセン主導のドイツ帝国が実現したのである。

 しかし、ビスマルクは見落としていた。ドイツが統一されドイツ帝国が生まれるとプロイセンが不要になってしまうことを。独立した領邦国家の連合体である旧ドイツ連邦の中では、オーストリアが主導するにせよ、プロイセンがヘゲモニーを握るにせよ、ともかく指導的地位を担う国家が存在した。しかし統一された国民国家(ドイツ帝国)の中では、いくら最大の領邦国家といえどもそれはもはや帝国全体の一部を構成する一州でしかなく、したがって主導権を握ることはできないのである。ビスマルクは憲法に様々な小細工をして、プロイセンの主導権獲得を画策したがむだであった。プロイセン人たちもドイツ帝国の中で、もはや自分たちを第一にプロイセン人だとは思わず、ドイツ人であると自覚するようになった。ビスマルクが残したドイツ・ナショナリズムのプロイセンは、もはや昔のプロイセンではなかった。

 プロイセンがいかにとるに足らない存在になっていたか、それはビスマルクが政治の舞台から退場して4年後にあきらかになった。このときバイエルンの侯爵ホーエンローエがドイツ帝国の宰相になったが、彼はそれと同時に自動的にプロイセンの首相になったのである。ビスマルクの感覚からすれば、プロイセンの首相がつねに帝国宰相を兼ねるというのが筋だった。ところがビスマルクの存命中すでに、すべてはさかさまになってしまったのである。つまりバイエルン人でも帝国宰相になることができ、そのためプロイセンの首相にもなれた、だから、バイエルン人がプロイセンを統治することになったのである。これに対してプロイセンの人びとが、何らかの抵抗を示したという話は伝わっていない。この事から考えると、ヴェルサイユにおけるドイツ戴冠式の前夜、涙ながらに次のように漏らしたプロイセン王ヴィルヘルム1世のほうが、ビスマルク以上に物事の本質を深く見据えていたのかもしれない。

  「明日は我が人生でもっとも悲しい日だ。古きプロイセンを葬らねばならないのだから」

 ビスマルクは、権力のトップにいたわけではなかった。その地位を維持するためたえず成功を強いられていた。このことがビスマルクの行動を規定した。ビスマルクの場合、その時々のプロイセン政治の目標をどこに置くかは、いまどれがもっとも成功を約束するかによって定まったのだ。つまり、目標の設定は、そのつど、達成の可能性によって定まり、目標を先に定めるのではない。これぞまさにビスマルクの成功の秘訣。しかし、これには大きな危険が伴う。達成されたものが最後になって追求する価値がなかったと判明する可能性があることだ。ドイツ帝国創設がまさにこのケースだった。ビスマルクが成功したためにプロイセンは滅びてしまったのである。

(宰相ビスマルクと皇帝ヴィルヘルム1世)

 (フランスの風刺画「実際の王はビスマルクだ」)

(梅毒新薬「毒滅」広告)

 毒滅(どくめつ)は、「森下南陽」堂(後の「森下仁丹」)より1900年(明治33)に発売された梅毒の薬。 商標にはビスマルクを採用し、「梅毒薬の大発見 ビ公は知略絶世の名相 毒滅は駆黴(くばい)唯一の神剤」と銘打って宣伝を行った。

 

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