ビスマルクとドイツ統一14 ドイツ統一①

 北ドイツ連邦に南ドイツのバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセンが加盟しドイツは統一された。新ドイツ帝国(神聖ローマ帝国を引き継ぐという意味から「第二帝国」、「第二帝政」と呼ばれる)は、プロイセン王国、バイエルン王国、ザクセン王国など22の君主国と3自由市(ハンブルク、ブレーメン、リューベック)の25国からなる連邦国家である。かつて神聖ローマ帝国時代に300もあった大小の国が、ドイツ連邦では40弱に整理され、それがさらに減って25になったということだが、単に量的に整理統合されただけではない。新ドイツ帝国は、神聖ローマ帝国のような多民族国家を否定し、ドイツ人の国民国家であることを正当性の根拠とした、まったく新しい国家だった。しかし実際には多くのドイツ人を排除(現在のオーストリアなど)し国外に遺す一方、国内にはポーランド人・ソルブ人などのスラヴ系諸民族やデンマーク人を少数民族としてかかえる点で、実態としてはいぜんとして多民族構成国家であった。新たに併合され、帝国直轄地となったエルザス・ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌ)の住民の多数も、自分たちをすぐにドイツ人と認めたわけではなかった。プロテスタント優位のプロイセンが、その経済力と軍事力を基礎に、三度の戦争を通してつくりあげた国家は、自由主義的なプロテスタント市民層から熱狂的な歓呼をあびたが、南ドイツ諸邦国の住民、カトリック教徒、非ドイツ系少数民族や社会主義者からは複雑な感情で迎えられた。

 この新ドイツ帝国の正式な成立はドイツ帝国憲法が発効した1871年1月1日であった(ただしバイエルンとの協定の批准がおこなわれたのは1月21日)が、一般的には1月18日、大本営が置かれていた敵地のヴェルサイユ宮殿鏡の間でドイツ諸邦国君主と将官・政府高官を前に、プロイセン国王がドイツ皇帝と宣言された式典が帝国誕生の日と記憶されている。この1871年1月18日をビスマルクやヴィルヘルム1世はどのような想いで迎えたのだろうか?多額の秘密年金で買収され、ヴィルヘルム1世にドイツ皇帝を名乗るよう依頼されたバイエルン王国のルートヴィッヒ2世は式典を欠席し、弟のオットーを王の代理として出席させた。彼は兄にこんな報告をしている。

「おお、兄上!式典のあいだじゅう、いかにはてしない悲しみと苦しみが私を襲っていたことか、とても言い表せるものではありません。なにもかもが私の心をかき乱し、目にするものすべてが忌まわしい限りでした・・・すべてが凍りつくように冷たく、おごり高ぶり、けばけばしく、大げさでもったいぶっていて、真心がなく、空疎でした」

 それでは新たに誕生した皇帝ヴィルヘルム1世はどうだったか?実は、オットー(バイエルン)に負けず劣らず不幸だった。皇后に宛てた手紙の中で彼はこう書いている。

「いま戴冠式を終えて宮殿から戻ったところだ。この数日来私がいかに不愉快な気持ちでいるか、とても言い表せないほどだ。その理由は、これから引き受けねばならぬ責任の大きさ、そしてとりわけプロイセンの称号が押しのけられてしまう悲しみにある。・・・今はもう退位して、フリッツ(息子で皇太子のフリードリヒ)にすべてを譲ってしまいたいくらいだ!」

 ヴィルヘルムの抵抗は式典まで数週間に及んでいた。あくまでプロイセン国王にこだわる王は、当初はドイツ皇帝の位を拒絶。ビスマルクの説得でしぶしぶ受け入れたものの、皇帝の称号には最後までこだわった。ヴィルヘルム1世は一連の戦争の勝者を意識し、名乗るのであればドイツ全土に君臨する皇帝を意味する「ドイツ[国]皇帝」(Kaiser von Deutschland)を希望した。しかし、ビスマルクは粘り強い交渉の末にようやく南ドイツ諸邦の同意を取り付けたばかりであり、ここで彼らを刺激するのは得策ではないとして、前者の称号よりはニュアンスが曖昧な「ドイツ皇帝」(Deutscher Kaiser)を求めた。両者の溝は埋まらない。式典の前日、王は突然涙を流してこう言ったという。

  「明日はわが生涯のもっとも不幸な日だ。われわれプロイセン王国を墓場に葬るのだから」

 最期の間際まで、すべてがひっくり返ってしまいそうな危うさだった。式典当日、皇帝万歳を唱えたバーデン公が次のように機転を利かせることで、ようやく危機は回避された。すなわち大公は万歳を唱える際に 、「ドイツ皇帝」とも「ドイツ国皇帝」とも言わずに、ただ「無敵なる皇帝ヴィルヘルム万歳」と唱えたのである。しかし、ヴィルヘルムは著しく不機嫌でビスマルクに挨拶すらしなかった。不機嫌だったのはビスマルクも同じ。この時の心境を妻に宛てた手紙でこう書いている。

「この皇帝出産は難産だった。国王たちというものは、保持しきれなくなったものを世に送り出す前のご婦人方のように、この期に及んでも気まぐれな欲望を抱くものだ。産婆たる私は、爆弾になって建物全体を爆破して粉々にしてやろうかと、何度無性に思ったことか。」

 式典の様子は、画家アントン・フォン・ヴェルナーが描いたあの有名な絵によって永遠に人々の記憶に刻まれることになったが、この絵からビスマルクやヴィルヘルムの複雑な心のうちまでは読み取れない。

(「ビスマルク記念碑」エルベ公園 ハンブルク) ドイツ最大のビスマルク像 台座も含めると34m

 (アントン・フォン・ヴェルナー「ドイツ皇帝即位宣言式」)

中央の白い軍服を着た男性がビスマルク、その隣で帽子を掲げている人物がモルトケである。壇上にはドイツ諸侯が並び、その前にはヴィルヘルム1世がいる。その隣がバーデン公。

(ヴィルヘルム1世とビスマルク)

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