ビスマルクとドイツ統一16 アルザス・ロレーヌの併合

 まだ普仏戦争が終わっていない1870年9月5日、マルクスとエンゲルス二人の手になる『社会民主労働党の宣言』が公表されたが、そこにこう書かれている。

「もしドイツがアルザスとロレーヌを奪うならば、フランスはロシアと手を握ってドイツと戦うだろう。それの破滅的な結果は説明するまでもない。」

 確かに、アルザス・ロレーヌの併合は、大国フランスのプライドを著しく傷つけ、反発心・復讐心をフランスに植え付けた。しかも、それがフランス第三共和政下では国民統合の手段に用いられたこともあって、ドイツに対する敵愾心・復讐心が一時的かつ短期的なものにとどまらず、フランスとの敵対関係を固定させてしまったのである。その際、ビスマルクが最も恐れたのが「同盟の悪夢」。ヨーロッパ大陸の中央部に位置しているドイツは、反ドイツ的な同盟が形成されてしまうと、容易に包囲されてしまう危険があった。そのため彼は、ドイツ帝国の安全保障を確立するためには、なんとしてでもフランスにドイツを包囲するような反独同盟を結ばせないようにする必要があった。そのために彼がとった戦略は二つ。

 第一の戦略は、ドイツ帝国がもはや「充足した」状態であり、これ以上領土を獲得することはないという自制の姿勢を内外にアピールすることで、周辺列強が抱く対独警戒心を多少なりとも緩和しようというもの。1876年2月9日、ビスマルクは帝国議会においてこう明言した。

「我々には征服すべき何ものもなければ。獲得すべき何ものもなく、我々が持っているもので満足しているのであり、我々がさらなる領土の征服や拡張を欲しているのだというのは、誹謗中傷でしかありません」

 そしてこの姿勢はその後も保持され、1887年1月11日の帝国議会でもこう述べている。

「我々は戦争を欲してはおらず、かのメッテルニヒ老侯が命名した『充足国家』に属しているのであって、剣をとって(領土を)戦い取るつもりはありません」

 そしてビスマルクは1873年10月22日、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、ロシアの間に「三帝協定」を成立させた。彼は、三国の友好関係を構築することで、墺露両国の対立を緩和するだけでなく、フランスに対するドイツの国際的立場を強化しようとしたのである。

 また、敵対的な方向で二国間関係が固定されてしまったフランスに対しては、第二の戦略で相対しようとする。それは、フランスを懐柔するのではなく、強硬姿勢でもってプレッシャーを与え続け、フランスの外交的孤立を図るというものであった。その方針を、1872年12月20日付パリ駐在大使アルニム宛手紙の中でこう言っている。

「わが国が欲するのは、フランスによって邪魔されないことであり、もしフランスが我が国との平和を欲しない場合には、フランスが同盟国を見出せないようにすることです。フランスが同盟者を見出せない限り、わが国にとってフランスは危険な存在ではなく、ヨーロッパの君主制諸大国が結束している限り、いかなる共和国も脅威ではありません。」

 ビスマルクは新聞報道を通じて、フランスに平和攪乱者のイメージを植え付け、それに対抗するために武力行使の可能性をちらつかせて威嚇する。しかし、巧みなフランス外交活よって失敗。ロシア、イギリスが、戦争を回避すべくパリではなくベルリンに対して外交的圧力を加えてきたのだ。列強が抱くドイツへの警戒心を再認識したビスマルクは、ドイツ帝国の安全保障を確立するために、何らかの具体的方法によって列強の警戒心を緩和する必要に迫られる。

 このようにアルザス・ロレーヌの併合は、独仏間の刺となって、長きにわたってドイツに重い外交努力を強いることになるのである。

 (エルザス・ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌ)【1871年~1918年】の州旗)

ドイツ帝国下のエルザス・ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌ)

(1873年 ビスマルク)

(三帝協定の風刺画「三人の皇帝を操るビスマルク」)

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