ビスマルクとドイツ統一13 ドイツ統一戦争⑤「普仏戦争」―その3―
普仏戦争は、ドイツ統一を妨げるナポレオン三世を撃つというかぎりでは、ドイツ側にとっては防衛戦争であった。しかし、ナポレオン三世が降伏(1870年9月2日)した今、なお戦争を継続することは、ドイツによるフランスの征服戦争となる。戦争の性格の転換だ。9月4日、パリに民衆暴動が起こり、帝政が廃止されて、臨時共和政政府(国民防衛政府)が成立。このフランス臨時政府とビスマルクとの間で平和交渉が持たれた。しかし交渉は決裂。原因は、ドイツ側がアルザス・ロレーヌの割譲を条件としたためだ。なぜビスマルクは、アルザス・ロレーヌの割譲を要求したのか?彼は、対オーストリア戦のとき、不必要な恨みを避けるため、国王のウィーン進撃と領土割譲を思いとどまらせていたではなかったか。
アルザスとロレーヌ(ドイツ語ではエルザスとロートリンゲン)は現在のフランス北東部にあってドイツに接する地域で、それぞれ17世紀と18世紀にフランス領となっていたが、以前は神聖ローマ帝国領であったこともあり、とりわけアルザスは言語的にもドイツに近い存在であった。高揚するナショナリズムにかられて、ドイツの保守主義者も自由主義者も、もともとアルザスとロレーヌはドイツの土地だったとその併合を要求し始めた。この熱望に逆らうものは国家への反逆と見なされたほどだった。しかし、ビスマルクはフランス化しているアルザス、ロレーヌの住民感情をよく知り、政治的にはこの地方の割譲が好ましくないことは十分承知していた。それにもかかわらず割譲要求を受け入れたのは彼のフランスにたいする不信感だった。フランスのドイツに対する復讐心がいずれにせよなくならない以上、次のフランスの攻撃に備えて、ストラスブールとメッスの要塞をおさえておくことが必要と考えたのである。
参謀総長モルトケの判断はどうだったか?開戦前、モルトケは対フランス戦争は短期決戦で防御的に戦うべしと考えていた。その背景には、フランス軍の強さへの考慮があったがそれだけではない。攻勢原則に立った場合には、フランスとオーストリアとを接近させ、二正面作戦に追い込まれる危険があると感じていた。さらに、フランス人民戦争を誘発することへの恐れもあった。モルトケはナポレオン三世の反革命的性格、すなわちナポレオン三世の独裁政治が革命運動への歯止めになっていることを見抜いていた。だから、もしフランス帝政が崩壊するならば、フランスに社会革命が起こり、プロイセンに対する人民戦争へと発展し、戦争のなりゆきは見定めがつかなくなると考えていたのである。そうした可能性を避けるためには、人民戦争が起こる前に戦争を終わらせること、つまり短期決戦をもってのぞまねばならないと考えていた。だから当初は、フランス人の抵抗を強化することになるアルザス・ロレーヌの併合には反対だった。しかし、セダン(9月2日陥落)とメッス(10月27日陥落)の勝利の後、併合論を唱えだす。もはやフランスの戦力はほとんどないと確信したからだ。
ドイツ軍は9月19日、パリを包囲。臨時政府の内相ガンベッタは10月8日、南フランスで新たな抗戦軍を組織するため、包囲されたパリから気球で脱出。彼の呼びかけでフランス全土から招集された人民軍はドイツの前線と後方との連絡網を攪乱し、パリはモルトケの予想を超えて抵抗する。戦争は膠着状態に陥った。ビスマルクは、はなばなしいドイツの勝利を目の当たりにして、それまで中立を守っていたロシア、イギリスなどの諸大国が介入してくることを恐れた。そのため彼はできるだけ早く臨時共和政政府の支配するパリを陥落させ、戦争を早期終結させることが大事と考え、直ちにパリ砲撃を開始することを主張。モルトケは当初は、大砲や弾薬の補給と準備の状況を考慮し、すぐにパリを砲撃することには反対だった。むしろパリを包囲し兵糧攻めにし、フランス諸地方軍への攻撃を続けていくことによって、共和政政府が反共和政政府にとって代わられるまで待とうとした。しかし、モルトケの期待とは逆に、共和政政府のパリ防衛の意志は強固であることがわかってくる。そのうえドイツ本国においても、北ドイツ連邦議会で社会主義者ベーベルとリープクネヒトが戦債に反対し、大逆罪に問われて投獄される事件も起こる。モルトケは戦争が長期化すると、共和主義の波が一層大きくなるのではないかと憂慮。戦争の早期終結に傾く。こうして、12月27日パリ砲撃が開始。1月に入ると砲撃は本格化。パリ防衛軍は、すでに食糧と燃料の不足に苦しんでいたが、1月9日に最後の出撃を敢行。しかし裏切った国民軍の砲火をうけ撃退されてしまう。すべての希望は失せ、人々は飢餓にあえいでいた。ついに1月26日、休戦が成立。1月28日、ついにパリは陥落した。
(軽気球でパリを脱出するガンベッタ)
(プロイセン軍の野戦病院にされた「ヴェルサイユ宮殿鏡の間」)
(1870年12月27日 プロイセン軍によるパリ砲撃開始)
(砲撃で破壊されたパリ)
(アルザス ロレーヌ)
(ストラスブールのプチット=フランス地区 アルザスの伝統家屋が密集 世界遺産)
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