ビスマルクとドイツ統一12 ドイツ統一戦争④「普仏戦争」―その2―
対仏戦争を想定して、ドイツ側軍部は、入念に準備を重ねていた。
「数年来、プロイセンの参謀将校たちは、絵心のある観光客らしい恰好をして、将来の戦場となる舞台を調べあげていた。進撃する軍隊に続いて、渡らなければならない河の幅に合った鉄橋が持ち運ばれた。これほど心を込めて準備された戦争は、いままでになかった。」(ドイツの歴史家ゴーロ・マン)
フランスに向けての動員をスムーズにするために、六本の鉄道が整備されていた。ドイツ軍情報部はフランス軍の動向を的確に把握し、参謀本部からの指揮系統も一貫していた(フランス側は情報機関を持っていなかったし、組織系統も混乱していた。)。さらにドイツとフランスでは、兵士の士気に大きな差があった。ドイツ軍の兵士には民族統一を目指して戦おうとする犠牲的な精神があったのに対し、フランスではブルジョアが、自分の子弟の入隊を嫌って、金を払って身代わりの者を兵役につかせているような状態だったからである。
8月、フランスのアルザスとロレーヌ地方に侵入したドイツ軍は連戦連勝。フランス軍主力のロレーヌ軍をメッスの要塞に包囲した。メッス救援に向かおうとしたナポレオン3世もメッスの要塞に追い込まれ、9月2日、全軍とともに捕虜とされた。
これで戦争は終わるかに見えた。しかし実際にはそうはならなかった。パリでは9月4日に国防政府が成立したのだが、ドイツに領土を割譲するのを嫌って戦争継続の方針が取られた。その結果、プロイセン軍の進撃は続き、9月19日にはパリを包囲するに至った。パリへの砲撃も行われ、フランス軍の抵抗も空しく、翌1871年1月28日にパリが陥落し、独仏間に停戦が実現した。その後、選挙に基づく国民議会がフランスで成立し、新たに発足した新政府との間で2月26日にヴェルサイユ仮講和条約、そして5月10日にフランクっフルト講和条約が締結され、ここに戦争は終わった。
普仏戦争の勝利は、それまで停滞状態にあったドイツ統一に向けた機運を一気に盛り上げた。ビスマルクはこの機を逃さず、パリ包囲戦の最中にプロイセン軍の大本営が置かれていたヴェルサイユ宮殿から、南ドイツ諸邦との統一に向けた交渉の指示を出し続けた。1870年10月から11月にかけて、力ずくではなく自発的に北ドイツ連邦に加入できるよう各個に粘り強い交渉を続けた結果、北ドイツ連邦憲法が来たるべきドイツ帝国憲法に引き継がれるものの、各邦に応じて軍事・税制・郵便・鉄道・電信に関して一定の留保権を認めるという条件付きで、南ドイツ諸邦との間に合意が成立した。
この際ビスマルクがこだわったのが、プロイセン王が一方的にドイツ皇帝を名乗るのではなく、南ドイツ諸邦の要請を受ける形でプロイセン王がドイツ皇帝を引き受けるという形式であった。彼は、プロイセンに次ぐドイツの大国であるバイエルン王国のルートヴィッヒ2世に対して、ヴィルヘルム1世にドイツ皇帝を名乗るよう依頼してもらうように工作した。バイエルン王は南ドイツ諸邦の中で最も親オーストリア的なスタンスをとっていただけに、交渉は一筋縄ではいかない。しかし、バイエルン王は、ワーグナーの音楽を愛し、現実を逃避して空想の世界に生きる王であった。ビスマルクはここに狙いを定めた。ビスマルクはかつて、ハノーファー併合の際、ゲオルク5世から奪った財産を基にして秘密資金(「ヴェルフ資金」)をつくっていた。彼はバイエルン王に、多くの一時金の他にこの資金から秘密年金を渡す。ルートヴィッヒ2世はその治世化に、現在バイエルン州の観光の目玉になっているノイシュヴァンシュタイン城、リンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城の三つの築城に着手したが、その資金はビスマルクから渡されたこの秘密年金だったのである。
(ノイシュヴァンシュタイン城)
(リンダーホーフ城)
(ヘレンキームゼー城)
(バイエルン国王ルートヴィッヒ2世)
(捕虜となったナポレオン三世とビスマルク)
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