ビスマルクとドイツ統一11 ドイツ統一戦争③「普仏戦争」―その1―

 「北ドイツ連邦」成立時、強行すれば、あるいは全ドイツ諸国を一つにまとめることもできたかもしれないが、カトリックと親オーストリア勢力の強い南ドイツ諸国を、この時点で無理に統合することをビスマルクは避けた。その理由を、1866年7月9日のパリ駐在プロイセン大使宛手紙の中でこう書いている。

「私はためらうことなく、北ドイツ連邦という言葉を口にしよう。・・・・そこに南ドイツ・カトリック・バイエルンの要素を引き入れることなど不可能だからである。・・・・もしバイエルンを無理に従わせようとすれば、南イタリアによって全イタリアがそうなったのと同じように、全ドイツが機能不全に陥ってしまうだろう」

 プロイセンの傘下に入りうる国を順次入れてゆく。それは基本的に関税同盟の場合と同じである。民族同胞だから一緒に、などという発想はビスマルクには無縁である。

 ドイツ統一を完成させるためには、もうひとつ叩く必要がある国があった。フランスである。ナポレオン3世統治下のフランスは、、隣国ドイツに強力な統一国家が生まれることを望んでいなかった。そればかりではない。ことあるごとに、ドイツが分裂状態を続けるような画策をやってきた。ビスマルクは、このフランスと戦端を開くことによって、ドイツ全土をナショナリズムの熱火のなかにまきこみ、南ドイツ諸邦をふくめて、統一ドイツの枠組みに組み込むことを考えたのである。そこに折よく「スペイン王位継承問題」が起きる。

 スペインでは1868年女王イサベル2世がクーデターで追放され、新国王を探していた。そしてホーエンツォレルン家傍系のジグマリンゲン家の王子レーオポルトに白羽の矢が立った。ビスマルクはこれを秘密裏に推進したが、スペイン政府が早まって公表したため、フランスは自国の安全を脅かす陰謀ととらえた。ベルリン駐在フランス大使ベネデッティは1870年7月9日、エムス温泉に逗留していたヴィルヘルム1世にレーオポルトの立候補断念を迫る。王はレーオポルトの即位辞退を承諾し、レーオポルト自身も辞退。ここまではフランスが外交的に勝ち、ビスマルクの計画はついえたかに見えた。しかし、勢いづいたフランスは、さらに7月13日、今後二度とレーオポルトが即位しない旨の確約を王からとろうとする。さすがにこの侮辱的な要求は、誇り高いヴィルヘルム王に受け入れられるはずもなく、王はきっぱりと拒絶し、会見予定を取り消した。そして王はビスマルクに電報を打った。ベネデッティの新しい要求とそれを拒絶したことを伝えるとともに、この扱いをビスマルクに一任する内容だった。ビスマルクは起死回生の手をうつ。電報を短縮して、異なる印象を与えるものに変えたのだ。本来の電報は単なる状況報告でしかなかったが、ビスマルクが手を加えることで、ベネデッティの無礼な要求に対して、怒ったプロイセン王が今後一切の交渉を持たないと返事した、という内容に生まれ変わったのだ。そして新聞に公表された。これが世に名高い「エムス電報事件」である。

 このニュースはドイツの世論を湧き立たせ、他方それがパリに伝わるや、民衆は激昂し、「ベルリンへ!」「プロイセンを倒せ!」と絶叫した。本来この問題で勝者であったはずのナポレオン3世が一転して窮地に追い込まれてしまった。このプロイセンの非礼を甘受すればフランスの敗北を意味するため、世論の支持を確保して自らの王朝を維持していくには、もはやプロイセンに対して強硬に打って出る以外に選択肢はなかったのである。7月14日、宣戦布告の閣議決定がなされた。

 (エムスでのウィルヘルム1世とフランス大使ベネデッティ)

(アレクサンドル・カバネル「ナポレオン3世」)

(1873年 ビスマルク)

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