ビスマルクとドイツ統一10 ドイツ統一戦争②「普墺戦争」

 1866年6月、ついにプロイセンとオーストリアとの戦いが始まる。1864年のデンマーク戦争では両国は共同歩調をとったが、戦後のシュレスヴィヒ・ホルシュタインの処分問題から対立。プロイセンの宰相ビスマルクが巧みにオーストリアのフランツ=ヨーゼフ1世を挑発して戦争に持ち込んだのだ。ビスマルクはこの時、天才的な外交手腕を発揮した。ナポレオン3世(フランス)にライン川左岸の提供を匂わせて中立を約束させ、4月には、王国を併合しながら国家統一を進めているイタリアと同盟を結んで、オーストリアの背後を脅かそうとした。それだけではない。反オーストリア組織を活性化させるため、ハンガリーやベーメン(現在のチェコ)の民族主義運動を援助しようとして、各地の地下組織や亡命者の組織と接触。伝統的秩序と君主制の擁護者ビスマルクが、オーストリアを打ち破るために革命側とも手を結んだのである。

 ビスマルクは、国内の敵を抑えるためにも手を打った。連邦議会に対して普通・直接・平等選挙という爆弾的な提案を行ったのである。もちろん、一般大衆の権利拡大運動に共感したからではさらさらない。あくまでも自由主義世論、民主主義世論をプロイセン側に向かわせるためである。また、自由主義派に対抗させるため、資金難に陥っていたラサール派の機関誌『社会民主主義者』に資金援助まで行った。こうしてビスマルクは、内外の敵を抑え、戦いに駆り立てていくために、ありとあらゆる策謀を練った。  それでも、普墺戦争は長期戦になると予測されていた。プロイセン軍は、50年代以降戦火を交えたことがなく、他方でオーストリア軍は戦いの経験豊かだったからだ。しかし戦争は予想を裏切って、わずか7週間でプロイセンの勝利に終わる。プロイセン軍の指揮をとったのはヘルムート・フォン・モルトケ参謀総長。彼はナポレオンの用兵術やクラウッゼヴィッツの『戦争論』を十分に研究していた。彼のもとで参謀総長と各軍団司令官との直結した命令系統が確立され、近代的な戦術のとれる体制が確立された。彼は産業革命の成果である鉄道や電信を効果的に活用し、大規模軍団を迅速に分散・進撃させ、戦略の拠点で集中・攻撃させた。またザクセン、ベーメン方面の鉄道はオーストリア側が一本であったのに対し、プロイセン側には五本あり、兵員の移動だけでなく、軍需物資の輸送においてもプロイセンはオーストリアにまさっていた。さらに電信隊により広大な戦場を統御することができた。火器では砲兵隊でオーストリアに劣ったが、その他ではプロイセンのほうが優秀だった。そして何よりも、プロイセン軍の士気のほうがオーストリア軍よりも高かった。早くも7月末には休戦条約が結ばれる。

 それまで反ビスマルクで固まっていたプロイセンやドイツの世論は、プロイセンが軍制改革の成果を示した対デンマーク戦争のあたりから変化が現れていたが、普墺戦争の結果「小ドイツ的」ドイツ統一が実現に近づいたことから、ドイツの自由主義陣営は、ビスマルクの成果を認める者と、原則的反対のものとに分裂する。見事だったのはビスマルクが、この機会を直ちにとらえて議会と和解したこと。彼はこれまでの予算なしの政治が正常でなかったことを認めて予算の「事後承認」を求め、議会はこれを承認して事実上ビスマルクを信任したのだ。

 このようにビスマルクはプロイセン議会と和解する一方、ドイツ問題では断固たる措置をとった。オーストリアはドイツの再編成から排除され、ドイツ連邦は解体、プロイセンは国を分断していたハノーファー、クーアヘッセン、ナッサウ、フランクフルトを、普墺戦争でオーストリアに加担したことを理由に併合し、北ドイツの大半を自分の領土にしてしまう。そして北ドイツで残った諸国をプロイセンの傘下に糾合して「北ドイツ連邦」をつくったのである。 バイエルンやバーデンなど南ドイツの有力諸国は独立国として残ったが、これらもプロイセンとの攻守同盟、また関税同盟を通じて結ばれていた、ここにプロイセンの力による、プロイセン中心のドイツ統一は、その基本レールが敷かれたのである。

 (「ヨハン・シュトラウス記念像」ウィーン )

「美しき青きドナウ」はヨハン・シュトラウス2世がケーニヒグレーツの敗戦に落胆したオーストリアを激励するために1867年に作曲

(ケーニヒグレーツの戦い)この戦いが、普墺戦争の勝敗を決した

(参謀総長モルトケ)

(「ビスマルク像」 マンハイム)

(北ドイツ連邦)

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