ビスマルクとドイツ統一9 ドイツ統一戦争①「鉄血演説」
1850年代は「鉄と石炭の時代」といわれたドイツ産業革命の展開期。そのなかで経済的力量を強めたブルジョアジーは、自分たちの経済的力量に見合った政治的発言力を求めて、貴族・ユンカーの優越的地位に対して挑戦していく。このような状況のもとで繰り広げられたのが、60年代前半の「プロイセン憲法紛争」であった。紛争の発端は、プロイセン軍隊の拡大・強化をはかる国王ヴィルヘルム1世による軍制改革の是非をめぐって国王側と議会側が対立したこと。そして1861年末のプロイセン下院選挙で自由主義左派のドイツ進歩党が多数派を占めると、国王が望む形での軍制改革は実現困難となり、ヴィルヘルム1世の非妥協的な態度も災いして事態は硬直化してしまう。陸相ローンは国王に進言する。このような状況を乗り切るには、ビスマルクのような行動力のある首相が必要である、と。王は、ローンの提案を受け入れる。こうして、プロイセン首相ビスマルクが誕生した。この時ビスマルク47歳。
しかし政権の座について意気込むビスマルクは、直後に思わぬ形で苦境に陥ってしまう。きっかけは、1862年9月30日に彼が下院予算委員会で行った演説。それ以降今日に至るまで、彼はこの演説ゆえに「鉄血宰相」の異名を奉られることになる。いわゆる「鉄血演説」である。
「ドイツが注目しているのは、プロイセンの自由主義ではなく、その力であります。・・・ウィーンの諸条約によって定められたプロイセンの国境は、健全な国家の営みにとって好ましいものではありません。現下の大問題が決せられるのは、演説や多数決によってではなく—―これこそが1848年と1849年の大きな誤りでした――鉄と血によってなのであります。」
ここでいう「現下の大問題」とは、ドイツ統一問題であって軍制改革、予算問題ではない。ビスマルクが意図したのは、自由主義派が強く解決を望んでいるドイツ統一問題をあえて引き合いに出すことで、そのような大問題を前に軍制改革や予算問題では妥協する用意があることを示すことだった。決して「鉄と血によって」軍制改革、予算問題を解決しようとしたわけではない。しかし、事態はビスマルクの思惑とは正反対の方向に進んでしまう。「鉄と血によって」という表現とその響きは、「演説や多数決」への蔑視と相まって、自由主義派に暴力的な支配を連想させるには十分なものがあった。ビスマルクの発言は、自由主義派との戦いの宣言ととらえられてしまったのだ。
下院は政府の予算案を否決。ビスマルクも、自由主義派とは折り合いがつかないと見ると、一転して対決姿勢を鮮明にして予算なしの統治を強行。「予算なしの統治は憲法違反であり、下院の予算審議権はなんとしても確保されなければならない」という立場に立つ下院に対して、「国家活動は一刻も停止しえないがゆえに、予算なしでも統治の責任を果たさねばならない」という見解を堅持した。そして、下院の停会や解散、露骨な選挙干渉、官吏に対する取り締まり、出版物規制などで予算なしの統治を強引に推し進めた。こうして議会との対決は泥沼状態に陥り、事態を打開する見通しは立たなかった。
思いがけず転機は「外」からやってきた。対デンマーク戦争である。この戦争はドイツ北方のシュレースヴィッヒ・ホルシュタイン両公国をめぐる問題を原因として起こった。この両公国はドイツ人とデンマーク人とがともに住んでいたために、ドイツとデンマークのいずれに帰属するかをめぐり紛争が絶えなかった。ビスマルクはオーストリアを誘ってデンマークに開戦し勝利した。この戦勝は様々な人々の喝采を呼び起こし、ドイツ人の民族意識を高揚させた。反ビスマルクであったトライチュケは、「私は子供のように喜んだ」と述べている。勝利はビスマルクと激しく「憲法紛争」を行っていた自由主義派にも影響を与えた。自由主義者たちの反政府闘争の鉾先が鈍り始めたのだ。ビスマルクは対外的成功によって国内の政治的緊張を緩和させることに成功したのである。
( 宰相ビスマルク、陸相ローン、参謀総長モルトケ)
(アルブレヒト・フォン・ローン)軍制改革を行い、ビスマルクを宰相に推薦した
(1857年 プロイセン国王ヴィルヘルム1世)
(「ビスマルク像」 ミュンヘン)
(シュレースヴィヒ・ホルシュタイン)
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