ビスマルクとドイツ統一8 「チェスの名手」ビスマルク
プロイセンは、ドイツ関税同盟の中心に立つことによって、すでにドイツの経済的盟主の地位にあった。そしてライン・ヴェストファーレンという先進工業地帯をもち、ドイツ・ブルジョワジーの関心をひきつけていた。これに対してオーストリアは、非ドイツ人地域を多くかかえていたばかりか、農業国であった。さらにオーストリアでは三月革命期に制定された欽定憲法(君主により制定された憲法。日本の明治憲法など)さえも廃止されてしまい、自由主義的世論の失望をかっていた。それでもオーストリアは、かつてのドイツ皇帝家(長年、神聖ローマ帝国皇帝に就任)としてハプスブルク家が君臨する国家であり、ドイツ連邦における第一国家(連邦議会の議長国)の地位にあった。従ってプロイセンとオーストリアのいずれがドイツ統一のヘゲモニーを握るかは、おそかれはやかれ決着がつけられねばならない。そして決着をつけたのはビスマルクだった。
ビスマルクは、1848年の革命時に地方貴族(ユンカー)出身のウルトラ保守派として政界に登場。そして50年代、連邦議会プロイセン代表公使としてオーストリアとの折衝にあたった経験が彼を政治家として大きく成長させた。ビスマルクは、ドイツ内で自らの覇権のために連邦議会を利用するオーストリアを阻止しようとした。ビスマルクはこう述べていた。
「遅かれ早かれ、プロイセンの馬が前に引っ張り、オーストリアの馬が後ろに引っ張る連邦のボロ車は瓦解するに違いありません」
そしてビスマルクの手腕が発揮されたのがクリミヤ戦争(1853年~56年。ロシアと、トルコ・イギリス・ フランス・サルデーニャ連合軍との間で起きた戦争)への対応。オーストリアはバルカン半島の市場とドナウ河航行権獲得をめぐってロシアと対立し、ロシアに現在のルーマニアから退去するように要求してトルコ側に着き、連邦議会にも反ロシアの立場に着かせようとした。しかし、ビスマルクは断固反対し、ドイツが軍事的にロシアに立ち向かうことを妨げた。元来、ドイツ連邦の諸邦国の外交官はオーストリア側についていて、ビスマルクの傍若無人な振る舞いに眉をひそめていたのであるが、戦争に巻き込まれることを避けて、ビスマルクの側に着いたのである。中小諸邦国をプロイセン側に引き込んだこのビスマルクの手腕は、彼の外交官としての経歴におおいに箔をつけた。彼はヨーロッパの大国も中小のドイツ諸邦国も、それぞれのエゴイズムで動いていることを冷静に見ていた。どの国も革命とか反革命とかいう理念以上に、実際の国家の利益が大事だった。やがてビスマルクはオーストリアの下に着く立場から脱却し、対等の立場を要求し、さらにはオーストリアを凌駕しようとするようになっていく。
ビスマルクは生まれながらのチェスの指し手と言われる。19世紀後半という時代と社会情勢の中でのヨーロッパというチェス盤で、どの駒がどの位置にあるかを、また自分と対局者の性格や行動パターンを考えながら、冷静に次の指し手を考えることのできる競技者であった。次の指し手のためには、「あらゆる戸口とあらゆる方向を開いておくこと」、つまり、常に実現の可能性を考えておき、どのような状況にも対処できるようにしておくことが必要であった。たとえ、それが革命的な国家やグループであったとしても、それはチェスの駒のひとつであり、プロイセンとその王権にとって有益であるなら、その駒を自分のために有効に使う、つまり、協調することにこだわりはなかった。どの駒が好きだとか、どの対局者がよいということではなく、好むと好まざるとにかかわらず、現実に与えられた状況の中で最善の指し手を探し、考える。そして駒を進めるべき時は、断固として駒を進める。理論やイデオロギーに縛られず、その時その時の現実を冷静に判断すること、これがビスマルクの政治手法であり、この後彼はますますその本領をいかんなく発揮していくことになる。
(「文化闘争」の風刺画)
「文化闘争」とは、ドイツ統一後の1871年から1878年にかけてビスマルクが行ったカトリック教会に対する政治闘争。ビスマルクが教皇と争ったのは、教皇に従うカトリック教徒の存在がドイツの統一を脅かすと考えたからである。
(「ビスマルク像」 フランクフルト)
(クリミヤ戦争)
(フローレンス・ナイチンゲール)
看護師としてクリミヤ戦争に従軍。負傷兵たちへの献身や統計に基づく劇的な医療衛生改革を実行し、「クリミアの天使」とも呼ばれた。
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