ビスマルクとドイツ統一7 統一以前のドイツ⑥ドイツの工業化と関税同盟
国民議会のドイツ統一の試み、すなわち「国民主導によるドイツ統一」が失敗した後、ドイツ統一の主導権を握ったのはプロイセン。その背景にあったのは経済問題である。
まず鉄道の建設と、それによって引き起こされた重工業の発展。1835年12月7日にドイツで初めての鉄道が、ニュールンベルクからフルトまでのわずか6キロで開通した。1838年にはベルリンーポツダム間にも開通し、1840年には全部で469キロにも達した。鉄道建設のもたらした影響は大きい。それによって迅速な物資の輸送が可能になり、ドイツ国内市場の統一条件が整えられた。しかしより直接的には、レールや蒸気機関車の製造である。当初はもっぱらイギリスから輸入されていた蒸気機関車は、次第に自国産が増え、1851年にはすでにドイツに存在する蒸気機関車1085台のうち、ドイツ製679台で半分以上を占めていた。レールや機関車に限らず、繊維産業においても紡績工場が増えて蒸気機関の使用が進んだが、それはまた鉄鋼や石炭の受容を高め、さらに労働力や銀行を必要とした。このようにドイツでは、鉄道の普及が工業化を引き起こす原動力となった。
このようなプロイセンの経済発展は、「ドイツ関税同盟」の発展と一体となって進んだ。どういうことか?ウィーン会議でプロイセンは新たな領土としてラインラント・ヴェストファーレンを獲得した。ここはドイツ工業の心臓部ともなるルール地方を含んでいるが、ベルリンを中心とする国の中央部とは切り離されている。両地域の間には、ハノーファーなど他国が挟まっていたのだ。これは、一国の経済発展にとっては極めて不都合な事態。しかし、もし間に入った国がプロイセンの関税・通商政策に合流し、通商政策上プロイセンと一体化すれば、両国は政治的には他国でも、経済的には一つの国と同じになる。1818年に関税法を公布し、国内関税を廃止したプロイセンは、自国の関税体制の中に隣接国を取り込んだり、他国との関税同盟によって関税圏の拡大を図る。そして、1842年には、ドイツ連邦39か国のうち28か国が「ドイツ関税同盟」に加盟。1854年にはハノーファーも加盟する。他方、ドイツ連邦の議長国オーストリアの加盟は棚上げにする。自国の工業力に自信をもって低関税の自由貿易政策に傾くプロイセンと、未発達の国内工業を高関税で保護しなければならなかったオーストリアでは、関税政策で一致することはできなかったのだ。
関税同盟の発展と一体となって進んだドイツの工業は、50年代に一層劇的に上昇する。カール・マルクスは、 1859年2月1日号の『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』に次のように書いている。
「それで私は最近十年間に、ドイツ人、とりわけプロイセン人ほど、この方向に巨大な前進をとげた国民がほかにあるとは思われない。読者が十年前にベルリンを見たとすれば、今日(もとの姿を)みとめることはできない。ベルリンは凍てついた練兵場から、ドイツの機械工作のそうぞうしい中心地に変わった。もし読者がプロイセン領のラインとヴェストファーレンを通過するならば、思わずランカシャーとヨークシャーを思い出すだろう」
1850年からの20年間で、ドイツ連邦の鉄道総延長は三倍強に増え、レールや機関車の大部分は自前で生産できるようになった。つまり鉄道建設を牽引部門として、製鐵・石炭工業や機械工業などの関連工業部門が著しく発達したのだ。そしてこの工業化の爆発的進展を象徴するルール工業地域を持つプロイセンは工業化の最先端を進み、オーストリアとの差を圧倒的に広げた。この事は当然、ドイツ統一をめぐる主導権争いにも影響を与えずにはおかなかった。1848年の三月革命後、復活したドイツ連邦内で、プロイセンは反動政策や中小諸邦国の統制ではオーストリアと共同歩調を取ったが、一方でプロイセンはオーストリアの単独優位を打ち破り、対等の地位を確保するため力を注いだ。その陣頭指揮にあたったのが、ドイツ連邦のプロイセン代表となったビスマルクである。彼がドイツ連邦議会のプロイセン公使になったのは1851年。1871年のドイツ統一のちょうど20年前。この20年間で、それまで誰もなしえなかったドイツ統一をビスマルクはなしとげるのである。
(1847年 ボルジヒ 鋳鉄・機械製造工場 ) 蒸気機関車製造の先頭
(1860年代 ケムニッツの機械製作所)
(1875年アドルフ・メンツェル「圧延工場」)
(ドイツの鉄道の発展1)
(ドイツの鉄道の発展2)
(ドイツの鉄道の発展3)
(ドイツ連邦)
(ビスマルク 1863年48歳)
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