ビスマルクとドイツ統一6 統一以前のドイツ⑤三月革命
1840年代半ばからドイツでは全般的な経済危機・社会的危機が生じていた。1848年3月、パリでの二月革命勃発の報道が伝わると、ドイツ各地で自由主義的な市民層や窮乏した都市下層民、農民がいっせいに蜂起。ウィーンやベルリン、またドイツ各地で改革を求める大衆運動が広がり、各邦国の保守的政府は軒並み倒壊して自由主義的な内閣が誕生する。ウィーンではメッテルニヒが失脚しイギリスに亡命、すでに破綻をきたしていたウィーン体制は、そのお膝元からあっけなく崩壊した。ナポレオン時代に始まる近代化のための改革のうち、滞っていた部分が急いで仕上げられる。いまだ憲法を持っていなかったオーストリアとプロイセンでも、新たに立憲国会が開かれて憲法を準備することになる。
ドイツの国民運動は、統一と自由という二つの目標のうち、まず自由に関わる要求を各邦国で認めさせることに成功したのだ。しかし、問題はドイツの統一をどのような形で実現するか。この問題を協議するため、各邦国での選挙を経て、5月、フランクフルトのパウロ教会でドイツ史上最初の国民議会「憲法制定ドイツ国民議会」が開かれた。そして、ドイツ全体の中央政治権力のあり方や憲法制定などドイツ統一をめぐる課題に取り組む。しかし、審議ははかどらない。議会内には保守主義から立憲君主主義、議会に重きを置く立憲自由主義、共和政を唱える急進的な民主主義まで、さざまな立場があったからだ。国民議会が迷走を続けるなか、革命は分裂と対立の様相を深めていく。そして、1848年秋から冬にかけて、ウィーンやベルリンで反革命勢力が勝利し、革命当初に達成された成果の大半は失われてしまった。
では、フランクフルト国民議会はどうなったか?全ドイツ憲法の作成に全力を挙げて取り組んだが、それは「公論」によって新しい国民国家をつくり出そうとした壮大な試みだった。当初準備されたのは「大ドイツ的」統一案。すなわち、ドイツ連邦の領域をそのまま引き継ぎ、これをドイツの国境としており、連邦領域外とされていたオーストリア領のイタリアやハンガリーは「ドイツ」に入っていない。つまりこの案では、オーストリア帝国は「ドイツ的部分」と「非ドイツ的部分」に分けられ、ボヘミアを含む「ドイツ的部分」だけが統一ドイツ国家に属することになる。当然、オーストリア政府は頑強に抵抗。1848年11月、オーストリア帝国の不分割・一体性を宣言し、その分割を前提とするフランクフルト国民議会の「大ドイツ的」ドイツ統一案を拒否。さらに、翌49年3月、オーストリア帝国の単一・不可分を宣言した欽定憲法を発布するに及んで、大ドイツ主義の立場は動揺し、結局「小ドイツ的」ドイツ帝国憲法が成立した。
しかし、それに続いてドイツの世襲皇帝に選ばれたプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、「議会の恩恵による」帝位につくことを拒否。これによって、ドイツ統一憲法は宙に浮いてしまう。議員は議会を去り、統一憲法の実施を要求して革命を続行しようとした急進派の蜂起もプロイセンの軍隊に鎮圧された。こうして1848~49年のドイツの革命は終わる。国民主導によるドイツ統一は完全に失敗したのである。
ところで移民大国アメリカにおいて、全人口のうち、最も多いのはどの国にルーツを持つ人々か。同じ英語を母語とするイングランド系やアイルランド系ではない。ドイツ系だ。2015年2月、英『エコノミスト』誌に「ザ・サイレント・マイノリティ」という表題でドイツ系アメリカ人の特集が掲載されたが、この特集によれば、アメリカの全人口の約6分の1に当たる4600万人がドイツ系だという。事情はこうだ。プロイセンでは、1840年代から鉄道建設をてことして工業が飛躍的に進展するが、ドイツは全体としてなお農業が優位であり、農村地域からの離村者、都市下層民を吸収することはできなかった。経済危機を反映して渡航移民が増え始めるが、そのほとんどが向かった先がアメリカ。大部分は南部やライン地域からの小農民や手工業職人であったが、1848年の三月革命失敗後、革命に参加した大勢の人びとも、政府の追及を逃れてアメリカ移住の道を選んだ。そして19世紀を通じてのドイツからアメリカへの移民は、1880年代にピークをむかえる(20世紀になっても移民は続く)。1885年10月7日、バイエルン王国、プファルツ地方カルシュタットに住んでいた16歳の若者が、ドイツ北部のブレーメンを発ち、蒸気船アイダー号でアメリカを目指した。フレデリック・トランプ(出生名フリードリヒ・トルンプ)現アメリカ大統領ドナルド・トランプの祖父である。移民に厳しい政策を行っているドナルド・トランプもドイツ系アメリカ人なのである。
(三月革命 アレクサンダー広場の大バリケード)
(三月革命 ベルリンのバリケード 後方)
鉛の窓枠を溶かして銃弾をつくる女性や子どもたち
(1848年 フランクフルト聖パウロ教会)入場する議員たち
(1848年フランクフルト国民議会)
(1880年 ブレーマーハーフェンからアメリカへ向かう移民)
(ブレーマーハーフェン「ドイツ移民ミュージアム」Deutsches Auswandererhaus Bremerhaven)1830年から1974年までの間にブレーマーハーフェンの港から720万人ものヨーロピアンが旅立った
(フレデリック・トランプ 1918年)
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