ビスマルクとドイツ統一5 統一以前のドイツ④不屈のベートヴェン
ドイツ統一を望まないメッテルニヒはが、自由と統一を求める「ブルシェンシャフト」のような学生運動を弾圧したのは当然だった。1819年8月にはカールスバートで10か国の会議を開き、ブルシェンシャフトや大学の連合組織は禁止され、大学や教授たちに対する監視も強化されることになる(「カールスバートの決議」)。新聞・雑誌はもちろん芝居・オペラの台本そして個人の手紙まで検閲された。ウィーンだけでスパイの数は1万人。彼らの協力者は、御者、ボーイ、従者、娼婦に及んだ。ターゲットにされた人物の追放、拘束、監視、尾行、盗聴、盗視が行われた。このような警察政治、密告社会の息苦しさの中で、ウィーンの音楽界では、明るく軽快なワルツ、ポルカや華麗なイタリアオペラが流行。1812年の「不滅の恋人」との破局以来スランプ状態にあったベートーヴェンは孤独感、疎外感を深めていった。聴覚の衰えの進行も拍車をかけた。1818年にはラッパ型の補聴器を使っても会話は困難になり、筆談に頼らなければならなくなった。それでもベートーヴェンの骨太な共和主義の精神は衰えない。カフェでの政治談議、政治批判もやむことはない。知人がベートーヴェンに伝えるために筆談した会話帳にこんな言葉が残っている。
「そんなに大声を出さないでください――あなたの人相は知られすぎているのですよ。では、またにしましょう。いまはあいにく・・・・・スパイのヘンゼルがここにいますから・・」
そう、ベートーヴェンも監視の対象になっていたのだ。そして1820年、警視総監が皇帝フランツ2世にベートーヴェンの逮捕を上申するに至る。結果はどうなったか。ベートーヴェンの政治批判は、奇人・変人のたわ言として不問に付された。それは、ベートーヴェンの 全ヨーロッパ的名声とともに、皇帝の弟ルドルフ大公が、ベートーヴェンの弟子でありパトロンだったからだ。
難聴の進行、大病、政治情勢の悪化、音楽情勢の悪化、甥の親権を巡る裁判闘争。「ベートーヴェンの生涯で、「最大の危機の年」とされる1817年には、自殺願望を抱くまでに。それでもベートーヴェンは屈しない。
「運命よ、おまえの力を示せ!私たちは、自分自身の主ではない。定められたことは、そうなるよりほかはないのだ。それならそうなるがよい!」(日記 1816年頃)
「心静かにあらゆる変転に身をゆだねよう。そしておお神よ!汝の変わることなき善にのみ、私のすべての信頼を置こう。汝、不変なる者は、わが魂の喜びたれ。わが巌、わが光、わが永遠なる信頼であれ!」(1812年から1817年までつけていた『日記』の最後。18世紀の宗教哲学者シュトゥルムからの引用 )
そして1818年、ピアノ・ソナタ「ハンマー・クラヴィーア」で見事復活を果たす。1823年には「ミサ・ソレムニス」(「荘厳ミサ曲」)、1824年には「交響曲第九番」を完成させた。交響曲第八番の完成から12年の歳月が流れていた。
(自然の中を散策するベートーヴェン)
(ベートーヴェンが使用した補聴器)
(カフェで新聞を片手に政治談議をするベートーヴェン)
(皇帝フランツ2世)
(オーストリア大公ルドルフ)
(ヨーゼフ・シュティーラー「ベートヴェン」)
0コメント