ビスマルクとドイツ統一4 統一以前のドイツ④「ドイツ連邦」と統一構想

 ウィーン会議でつくられたドイツ連邦は、統一国家というには程遠いものであった。オーストリア、プロイセンの他4君主国、1選挙侯国、7大公国、10侯国、10公国、1方伯国、4自由市から成り立っていた。さらに、ハノーファー―の君主はイギリス国王、ホルシュタインの君主はデンマーク国王、ルクセンブルクの君主はオランダ国王であって、ドイツ連邦と言っても国際的な君主同盟に近かった。このような、ドイツという地名の上に35君主国と4自由市が並び立つという状態は、1867年に「北ドイツ連邦」(1871年に創設されるドイツ帝国の母体)が発足するまで続く。「ドイツ連邦」からどのようにして「北ドイツ連邦」は生まれたのか?それは、オーストリアの指導性が低下し、プロイセンのそれが台頭する過程であったと言っていい。

 ドイツ連邦はその機関としてフランクフルトに連邦議会を持ち、オーストリアが恒常的議長国となる。このオーストリアを率いるメッテルニヒは、ヨーロッパのパワー・バランスのためには、ドイツは強力な統一国家などにならない方がよいと考えていた。彼にとって、ドイツ人の民族統一などもとより論外だった。なぜか。オーストリア帝国は、チェコ・ハンガリーから北イタリアにも延びる多民族国家。民族統一などという原理とは全く相いれない性質の国なのである。そんな原理がまかり通ったら、オーストリア帝国は解体するほかない。

 しかし19世紀にはいり、ヨーロッパが経済的にも政治的にも、列強によるきびしい競合と進出の舞台になるにつれ、ドイツの国家的分裂の克服は、ドイツの商工業の発展のためにも、またその発展を支える政治的統一のためにも、達成されねばならない国民的課題となって来た。では、どのようにドイツの国家統一を実現するのか?まず《国家統一の主力》をどこに求めるかによって、二つの道があった。第一は、民衆運動の力によって、絶対主義的な主権国家群をそれぞれ自由主義化しつつ、そのうえに自由主義的統一国家を樹立する道。第二は現存の国家群のうち最も強力な国家(オーストリアかプロイセンか)の力によって統一する道である。さらに、《国家統一の範囲》をどう限定するかによっても、二つの方式が考えられた。いわゆる「大ドイツ主義」(オーストリアをふくめて統一国家をつくる方式)と「小ドイツ主義」(オーストリアを除外する方式)である。この小ドイツ主義が生まれる背景には、オーストリアの国内事情が関係していた。多民族国家オーストリアは、支配民族であるドイツ人とともにマジャール人や多数のスラブ系諸民族をかかえており、しかもドイツ人は19世紀中頃には20%強の比率しか占めていなかった。そこから非ドイツ的なオーストリアを除外して統一国家ドイツを構想する考えが生まれてくるのである。

 ビスマルクが生まれたのはウィーン会議が開かれた1815年。歴史の表舞台に登場するのはまだ先である。

( 1817年 ブルシェンシャフトによるヴァルトブルク祭)反動的、反ドイツ的とされた書物の焼却

学生組織「ブルシェンシャフト」は、自由主義的ドイツ統一運動を主導。1817年には、ルターゆかりのヴァルトブルク城に宗教改革と解放戦争を記念して集結。祖国ドイツへの愛と自由と正義の貫徹を唱える祝祭を開催。

 ( 1817年 ブルシェンシャフトによるヴァルトブルク祭)

この時以来、黒赤金の三色旗(「黒・赤・金」はそれぞれ「名誉・自由・祖国」を表す)はドイツ統一と自由を求める運動のシンボルとなった。そして現在のドイツ国旗はこれに由来する。

(ドイツ連邦)プロイセン王国の東部分、オーストリア帝国の半分以上は含まれない

(北ドイツ連邦)

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