ビスマルクとドイツ統一1 統一以前のドイツ①神聖ローマ帝国

 ヨーロッパ史を学んでいて、よく登場するが実態がつかみづらいのが「神聖ローマ帝国」。962年、オットー1世がローマ教皇の手によって戴冠されて誕生し、ナポレオンによって1806年に崩壊するまで844年間続いた。15世紀中頃、帝位がハプスブルク家に定着するようになると、その頃からは皇帝は教皇による戴冠をうけることはなくなり、帝国としてはかたちばかりとなった。そればかりでなく、ドイツ語を話す人口の大部分は、その故郷を帝国内にもち、帝国の領域の大半はドイツ人が住むようになった。そして18世紀には、神聖ローマ帝国は「ドイツ帝国」とも別称されるようになった。

 しかし、このようにドイツ国家と目されるようになった神聖ローマ帝国も、その実態は国家という名に値するものからは程遠かった。18世紀においても、約300の事実上の独立主権国家(領邦国家)の集合体にすぎなかったのである。帝国の独自の軍制も帝国裁判所も有名無実化し、ことに有力領邦(オーストリア、プロイセンなど)は皇帝への忠誠よりも、皇帝に対して彼らの自由と自立のほうを優先させていた。こうした状況のなかに生きたドイツの詩人ヴィーラント(1733~1813)は、幼年時代を回想して次のようにいっている。

「幼年時代、私は義務について、大変多くのことを聞かされたが、ドイツ愛国者の義務については、ほとんど聞かされたことがなかった。私は、ドイツという言葉が、名誉をもって語られたのを思い出せない。そこにはザクセン、バイエルン、フランクフルトの愛国者は存在した。しかし、帝国を彼らの祖国として愛するドイツ愛国者、そんなものは、どこに存在しただろうか」

 このような神聖ローマ帝国もナポレオンの制圧の下で崩壊し、約300の国家群は、ナポレオンの支配に都合がいいように40ばかりに整理・統合された。そのうえ西南ドイツ16か国をもってライン同盟を結成させ、ナポレオン自らがその保護者となった。ナポレオン支配下のドイツでは、次第に反ナポレオン勢力の結集が進み、解放への気運が高まった。1812年、ナポレオンがロシア遠征を決行すると、ドイツ諸領邦の軍も参加し、60万の大軍がモスクワに向かったが失敗し、ナポレオン軍は壊滅。これを見たプロイセンは寝返って、ロシア軍とともにナポレオンを攻撃。しかし、両軍だけではナポレオンを打破できず、オーストリアが味方に付き、さらにドイツ諸領邦がライン同盟から離脱して初めて戦況が有利に展開した。「諸国民戦争」の名で知られるライプツィヒの戦いで、プロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデン連合軍に敗れたフランスはドイツ国内から撤退し、やがてフランス本土の戦いでも追い詰められたナポレオンは退位を余儀なくされた。

 ところで、ヨーロッパ最大の記念碑建造物はライプツィヒにある。高さ91mの「諸国民戦争記念碑」。完成したのは「諸国民戦争」百周年の1913年のことである。また、世界最大の ゴシック様式の建築物「ケルン大聖堂」が現在の威容を誇るようになったのも、諸国民戦争の勝利を記念して、1813年に再建計画が開始されてからのこと(献堂式は1880年)。それまでは、1560年に建設が中止されて以来廃墟になっていた。これらの記念碑からもいかに「諸国民戦争」勝利の意義がドイツにとっていかに大きかったかがわかる。

 (1806 ナポレオンのベルリン入城)

(三十年戦争後【1648年】の神聖ローマ帝国)

(「諸国民戦争記念碑」ライプツィヒ)

(ケルン大聖堂)

(「ビスマルク記念碑」ベルリン ティーアガルテン) 

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