ビスマルクとドイツ統一2 統一以前のドイツ②「はじめにナポレオンありき」
ナポレオンのドイツ支配は、ドイツの国民意識を高揚させた。ドイツ人にとってはそれまで祖国とはプロイセンやバイエルンなどの領邦であり、抽象的なドイツの観念は、知識層や啓蒙思想家のなかにはあったとしても、歴史的具体的な場としては存在しなかった。しかしフランスによる支配の中で、一般のドイツ人に対する愛国的な感情に訴え、またそれを受容する状況が盛り上がったのである。哲学者フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」は、その代表的なものであった。フィヒテは、1807年12月13日からベルリン学士院講堂で翌年3月まで毎日曜日夕方、計14回行い、フランス文化に対するドイツ国民文化の優秀さを説き、これを国民全体に広め国民精神を涵養することがドイツ再興の道であると説いた。
また、領邦国家レベルで国家の最高をかけた自由主義的改革が行われる。特に重要なのがプロイセンの改革。プロイセンは、1806年10月、イェナとアウエルシュタットと戦いでナポレオン軍に大敗。翌年結ばれたティルジット講和条約は、プロイセンから領土の半分を奪い、巨額の賠償金を科すという屈辱的な内容だった。しかし、国内に駐留する15万人のフランス軍を追い出すためには、賠償金を払うことが条件。そのためには、国民の総力を国家に結集する体制をつくることが必須。それには、それまでの国家体制の限界を突き抜けて、農民と都市市民に対する封建的・身分制的束縛を打ち破り、抜本的な自由主義的改革を遂行することが必要だった。シュタインとハルデンベルクを中心とする改革官僚たちによって国家存亡をかけた難事業が取り組まれた。農民解放におけるシュレッターやシェーン、都市改革におけるフライ、教育改革におけるフンボルトやシュライエルマッハー、軍制改革におけるシャルンホルストやグナイゼナウなど有能な改革官僚がつぎつぎと登場して、その手腕を発揮。市民に市政参加を認めた「都市条例」、農民を領主への隷属関係から解放した「農民解放」、「研究と教育の自由」という新しい大学理念によるベルリン大学の創設などを実現していった。
こうした改革を通じてプロイセンは国の再建に成功。その成功と改革能力がこの国に、ドイツの指導国としての道を開くことになる。フランスをドイツ国内から撤退させた1813年10月のライプツィヒの諸国民戦争を主導したのもプロイセン。その後プロイセンを中核とする同盟軍は1814年にパリに入城。ナポレオンはエルバ島に流される。1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し「百日天下」をとるも、ワーテルローの戦いにやぶれセント・ヘレナ島に流され、ナポレオン戦争は終結する。
1814年9月、ヨーロッパ再建のための会議がウィーンで始まる。このウィーン会議は、ヨーロッパのほとんどすべての国王・君主またはその政府が参加する大国際会議となったが、どの国がこの会議をリードしたのか?ナポレオン失脚を主導したプロイセンか?違う。オーストリアだ。オーストリア外相メッテルニヒが「正統主義」と「勢力均衡」を指導理念とした会議をリードした。それはなぜだったのか。
(ティルジット条約の締結) ネマン川上のいかだで会見するナポレオンとアレクサンドル1世
(ティルジットでのナポレオン、アレクサンドルI世、プロイセン王妃、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世)
(フィヒテ)
(シュタインとハルデンベルク)
(プロイセンの改革 行政改革 経済改革)
(プロイセンの改革 教育改革 軍制改革)
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