ナポレオン3世・オスマンのパリ大改造と印象派9 印象派とアメリカ
印象派の出発点とされるモネの「ラ・グルヌイエール」はどこにあるか。ニューヨーク・メトロポリタン美術館。彼の代表作の一枚「散歩、日傘をさす女性」はワシントン・ナショナル・ギャラリー。ルノワールが手がけた代表的な肖像画作品のひとつで、彼を成功に導くきっかけとなった「シャルパンティエ夫人とこどもたち」は?これもニューヨーク・メトロポリタン美術館。彼の傑作「舟遊びの昼食はワシントン・フィリップス・コレクション。フランスで描かれた印象派の名画の多くがアメリカにある。印象派の隆盛はアメリカの恩恵によるところ大なのである。どういうことか。
印象派絵画の殿堂と言えばパリ・オルセー美術館。ここの印象派コレクションの中核になっているのは、自らも印象派の画家だったカイユボットの寄贈品。カイユボットは印象派展の開催を資金的に援助し、さらには友人たちの作品を高く購入し、彼らの生活を支えた。そのため、現在では印象派のパトロンとして知られる。その彼が、1894年に亡くなった際、ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」をも含む自らのコレクション(100点以上)を国家に寄贈するという遺言を残した。この頃、印象派はアメリカで人気を博し、そのアメリカ経由でフランス人の心もしっかり捉え、絵の価格もみるみるうちに初値の何十倍、何百倍と吊り上がっていく状況だった。しかし、フランス・アカデミーの先生方の頑固ぶりは健在。「こんな不潔なものは拒否するように」と、政府に要請。ルノワールを中心とした遺言執行人たちが抗議し、しぶしぶ半数(65点ほど)だけ受け取ったのだった。
では印象派がアメリカで成功を収めたのはなぜだったのか。1776年にイギリスから独立を勝ち取ったアメリカは、南北戦争(1861年~1865年)を経て1870年代末には世界最大の工業国にのし上がっていた。経済の次は文化。ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアなど、公立美術館の建設ラッシュを迎える。しかし、そこに飾る傑作がない。アメリカ人画家の力はまだまだ。そこで目に留まったのが印象派。画面が明るくきれいで、癒し効果があり、知識が無くても楽しめる印象派絵画は、アメリカの新興ブルジョアジーの邸宅を飾り立てるのにうってつけだった。そして、死後は、大量に美術館に寄贈する。砂糖王と呼ばれた大富豪ハブマイヤー夫妻のように。アメリカ人が購入した最初の印象派作品はドガのパステル画「バレエのリハーサル」。これはアメリカ人のルイジーン・エルダーが、パリで友人になったメアリー・カサット(ドガに導かれて印象派展に参加した唯一のアメリカ人画家)から強く勧められて購入した作品。ルイジーンはのちに精糖会社を経営していたヘンリー・ハブマイヤーと結婚し、ハブマイヤー夫妻はメアリーをアドバイザーとして印象派の大コレクションを築く。そしてこれらはのちにメトロポリタン美術館に寄贈され、世界屈指の印象派コレクションになった。
ところでメアリー・カサット。「母と子」や「子ども」のモチーフを独特の暖かいタッチで描いた作品で有名だが、ドガとの関係も興味深い。その波乱に富んだ友情関係は40年に及んだ。友人の一人がこんな風に評している。
「彼らの友情は刻々と移り変わる磁場のようだ。そこでは常に引き合う力と退け合う力がある。しかし悲劇やスキャンダルはそこには存在しない。彼らの愛はパリの芸術の世界に溶け込み、そこで昇華されているのだ」(スーザン・マイヤー『メアリー・カサット』より)
このメアリー・カサットは、絵の購買層たる上流階級に太い人脈を持ち、アメリカと印象派絵画の重要な橋渡しとなった のだ。
(ルノワール「シャルパンティエ夫人と子どもたち」メトロポリタン美術館)
(カイユボット「床削りの人々」オルセー美術館)
(カイユボット「パリの通り、雨」シカゴ美術館)
(ドガ「バレエのリハーサル」個人蔵)
(メアリー・カサット「オペラ座の黒衣の女」ボストン美術館)
オペラグラスの角度から、この女性が眺めているのが舞台ではなく観客席だとわかる。向こう側の男もこの女性を眺めている。
(メアリー・カサット「母と子」シンシナティ美術館)
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