ナポレオン3世・オスマンのパリ大改造と印象派8 モネ「ラ・グルヌイエール」

 19世紀半ばに始まったナポレオン3世、オスマン男爵による大改造によって、パリは明るく清潔な街になる。さらに鉄道の開通に伴い、パリ市民は日曜日ともなると郊外の行楽地、特にセーヌ河畔で余暇を過ごした。そのひとつシャトーにあったレストラン「ラ・メゾン・フルネーズ」。ここを舞台に描かれたのがルノワールの傑作「舟遊びの昼食」。もともとここは貸しボート屋。ここから人々がボートに乗って向かった先がグルヌイエール。モネとトルノワールは、1869年の夏、ここでカンヴァスを並べて制作し、印象派の出発点とされる「ラ・グルヌイエール」を描いた。作品から伝わってはこないが、この場所は、娼婦や遊び人などがたむろする、ちょっと危険な香りのする歓楽地だった。そもそも「グルヌイエール」というのは、もともと「カエルの棲む場所」という意味で、転じて夜の獲物を探してここに集まってくる娼婦たちを指していたのだ。モーパッサンはこう表現している。

 「ラ・グルヌイエールの近くでは、ごったがえす散歩者の群が大木の周りをうろうろしていた。この樹があるおかげでこのあたりは世にも美しい公園になっているのだ。女たちは、髪を金髪に染めて、胸をつきだし、尻をふくらませ、おしろいをぬりたくって厚化粧をして、唇を真っ赤にぬり、派手な衣装を着てウエストをベルトで締めあげた女たちで、けばけばしく悪趣味なドレスで芝生をひきずっていた。」

「水上カフェのなかには、どなったり、わめいたりする群衆がごったがえし、木製のテーブルには飲食物がこぼれて、汚らしい細い流れが幾つもできていたが、そのテーブルの上にはどれも飲みかけのコップの群れ、テーブルを囲んでいるのはみなほろ酔いかげんの客たちだ。誰もが、叫んだり、歌ったり、奇声ををあげたりしている」

 モネやルノワールの作品から抱くイメージとの何たる違い。この白昼の水の盛り場グルヌイエールの水上カフェは、木曜日の夜にはダンス上に変わった。そして男も女も、夜更けまでここで思う存分猥雑な踊りを楽しんだ。

 ダンスと言えば、グルヌイエールの少し下流にあるブージヴァルもまた夏場にダンス客を集めてにぎわった。その様子をルノワールは「ブージヴァルのダンス」で描いた。若い娘(モデルはヴァランドン。後にユトリロの母となるお針子出身の娘)が白いドレスをひるがえしながらダンスに興じる様子からは見えにくいが、背景に描かれた行楽客は素性あやしき男女たち。このダンス場は、ボート漕ぎの荒くれ男たちとあやしい女たちがはめをはずしてダンスに興じるとっておきの場所だったのである。

 (ルノワール 1881「舟遊びする人々の昼食」)


(モネ 1869「ラ・グルヌイエール」)

(ルノワール 1869「ラ・グルヌイエール」)

(ルノワール 1883「ブージヴァルのダンス」)

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