ナポレオン3世・オスマンのパリ大改造と印象派3「落選者展」

 印象派展が開かれる以前から、「サロン(官展)」の審査に対する画家たちの不満は強くなりつつあった。そしてむかえた1863年のサロン。3000人の画家が5000点の作品を出品し、3000点が落選。不満の声は大きく、皇帝ナポレオン3世の下にも届けられた。

「展覧会審査員によって落選と決定させられた芸術作品に関し、多くの不満が皇帝のもとに寄せられた。皇帝陛下は、これらの不満が正しいかどうかの判定を一般民衆にゆだねるため、落選作品を、パレ・ド・ランデュストリーの一部にあわせて展覧するよう、決定を下された。」(1867年4月24日 「モニトゥール」紙)

 こうして、「落選者展」が開かれることになったが、その意味するところは大きかった。画家たちに「サロン」の審査を経ずに直接作品を公衆に提示する機会が与えたからだ。第1回印象派展が開かれるのは7年後の1874年だが、「落選者展」の開催はその遠因にもなった。

 ところで、「皇帝のサロン」、「敗者のサロン」とも呼ばれたこの「落選者展」。そこに出品された一枚の絵が大スキャンダルを巻き起こした。マネの「水浴」(「草上の昼食」)である。なぜこの絵が大スキャンダルになったのか?一糸まとわぬ女性の裸体を描いたからか?そうではない。1863年のサロンでもカバネル「ヴィーナスの誕生」(オルセー美術館)、ボードリー「真珠と波」(プラド美術館)など多くの裸体画が入選している。一体マネの作品と何が違ったのか?入選作はヴィーナスの裸体画、つまり神話画であったのに対し、マネは日常の世界の女性の裸体を描いた。そのために「淫ら」な作品と見なされたのだ。それが「サロン」の審査基準、「美」の基準だったのだ。

 マネが1865年のサロンに出品した「オランピア」はさらなるスキャンダルとなった。ポーズはティツィアーノ「ウルビーノのヴィーナス」(1538年)となんら変わらないが、描かれている裸体の女性は明らかに娼婦。ナポレオン3世の時代は空前の売春時代。マネは同時代の風俗を神話画としてではなく、ありのままに描こうとした。当時の近代化するパリの都市生活の実態を描こうとして、サロンと衝突したのだ。しかし、マネに共感する人々も少数とは言え、すでに現れ始めていた。例えば、ボードレール。

      「現代生活こそが、現代の芸術家にとって価値ある主題だ」

 エミール・ゾラも、1868年のサロンを批評する文章の中でこう言っている。

「マネやクールベのすばらしい作品が発表された後、今の時代を絵画の対象にすべきで ないと思うものは誰もいないはずだ。」

 「現代性」(モデルニテ)へのこだわりが、共通のテーマとなりつつあった。そしてその背景には、産業革命を背景にした商工業の発展と何よりナポレオン3世とオスマン男爵によって展開された「パリ大改造」による都市生活の激変があった。

 (ティツィアーノ「ウルビーノのヴィーナス」)

(カバネル「ヴィーナスの誕生」)

(ボードリー「真珠と波」)

(アモリー・デュバル「海から上がるヴィーナス」)

(マネ 「水浴」(「草上の昼食」))

(マネ「オランピア」)

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