ナポレオン3世・オスマンのパリ大改造と印象派2「印象派展」②

 「めちゃくちゃに色を投げつけた」絵などと酷評された第2回印象派展に出品された作品も、モネ「アルジャントィユの橋」(オルセー美術館)、シスレー「ポール・マリーの洪水」(オルセー美術館)、ベルト・モリゾ「舞踏会にて(扇を持つ女性)」(マルモッタン美術館)など、いずれも印象派を代表する名品ばかり。印象派時代のルノワールの代表作の一つ「習作「陽光を浴びる裸婦」もこの時出品されたが、アルベール・ヴォルフ(『フィガロ』紙)の批評は、今ではまるで考えられないものだった。

「ルノワール氏に女性の上半身は、緑や紫のしみのある腐敗した肉の塊などではないのだと説明してあげよう。こんな色のしみは死体が完全な腐敗状態にある時にできるものだ」

 一体、それらの絵画の何が問題だったのか?一言でいえば「サロン」の審査基準に外れていたこと。当時、フランスで画家たちにとって唯一の公的な作品発表の場と言えば「サロン(官展)」。例えば1866年のサロン(5/1~6/20)の入場者数はなんと30万人。当時のパリの人口は180万人の時代にである。画家にとって、サロンに入選するかどうかは死活問題だった。そしてこのサロンの審査はこうだった。審査員を務めるのは、保守的な官立美術学校教授や美術アカデミー会員。審査基準は主に二つ。第一に主題は、ギリシャ・ローマ神話、聖書、文学作品、歴史的大事件であること。第二に技法は、明確な輪郭線。印象派の絵画は何れの点でも基準を逸脱していた。風景、都会人の生活を主題として扱い、技法の特徴は、軽快な筆使い、明るい色調、不明瞭な輪郭線。彼らは、自分が目にするものを、自分の印象通りに表現しようとしたのだが、それは「サロン」の基準からは大きく外れていた。そして当時の人びとの美意識も「サロン」に大きく支配されていた。こんな風刺画が2枚ある。いずれも第2回印象派展の風刺画。ひとつは、「印象派の画家の展覧会」の入口で警察官が入場しようとする妊婦を制止しているもの。警察官はこう言っている。

    「奥様、『印象派展』の会場に入るのは危険です。お引き取り下さい!」

 印象派の絵にショックを受けて流産してしまうと警告しているのだ。もうひとつは印象派の絵で、敵兵を打ち負かすトルコ兵を描いたもの。トルコ兵から印象派の絵を見せつけられた敵兵が、ショックのあまり退散していく様子が描かれている。

 画家に限ったことではないだろう。支配的な時代の風潮に抗して自己表現を行っていくとき、それは保守的な連中の眼には「野心の狂気に取り憑かれたこの不幸な連中」「完全な発狂状態にまで達した人間の虚栄心の恐ろしい姿」(アルベール・ヴォルフ)と映るのだろう。

 (モネ「アルジャントィユの橋」オルセー美術館)

(シスレー「ポール・マリーの洪水」オルセー美術館)

(ベルト・モリゾ「舞踏会にて(扇を持つ女性)」マルモッタン美術館)

(ルノワール「習作 陽光を浴びる裸婦」)

(第2回印象派展の風刺画【1877】)

(第2回印象派展の風刺画【1877】)

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