ナポレオン3世・オスマンのパリ大改造と印象派4 大改造の目的

 フランス革命の混乱を収拾して権力の座に就いたのがナポレオンだが、そのナポレオン没落後に復活した王政に対して1830年ブルジョワ革命派が七月革命を起こす。しかし中間的ブルジョワジーから支持を得て誕生した七月王政政権は、選挙権を銀行家、大商人、大地主に限り、左右両派からの攻撃を同時に受けるようになる。1832年には六月暴動が起きる。ユゴーが『レ・ミゼラブル』の後半のクライマックスとして描いた暴動だ。さらに1848年には二月革命。誕生した第二共和政政権には労働者の代表として史上初めて社会主義者が入閣した。ルイ・ブランである。この政権は、男子普通選挙を実施し、失業者に雇用の機会を与えるために国立作業場も設立。しかしその恩恵にあずかれない農民は不満。ブルジョワにとっても自分たちの収めた税金で失業者を雇うようなものなのでやはり面白くない。こうした中、行われた選挙で社会主義者は大敗。国立作業場も閉鎖へと追い込まる。労働階級は、この国立作業場閉鎖を契機に6月に武装蜂起(六月蜂起)するも鎮圧。そして、この年の12月に行われた選挙ではルイ・ナポレオンが大統領に選出されるのだ。かれは、パリの街自体が革命の温床になっていると考えた。大統領就任直後に、パリ改造の構想をこう語っている。

「パリはフランスの心臓である。この大都市を美化しその住人の境遇を改善し、・・・・・新しい街路を開こう、空気が通らず光の射しいらない人口の多い地区を清潔にしようではないか、太陽の恵み多い光がいたるところわれらの壁のなかにまで射し入るようにしよ うではないか。」

 シテ島のスラム街が破壊された。コレラの温床となり、バリケードづくりに好都合な狭い路地は、大通りに改造。空気の流れをよくするだけでなく、交通、流通を促進し産業の発展につなげた。暴動が発生した時に鎮圧部隊がすぐに現場に急行できるという治安維持の目的もあったが。クリーンな空気を街に供給する大きな森、公園もあちこちにつくられた。パリ大改造が行われたのは1853年から1870年。マネが生まれたのは1832年。ドガは1834年、モネは1840年、ルノワールは1841年。彼らは、最も多感な青年期をパリの街が大変貌を遂げていく時代の中で過ごした。そして、自分が目にする「現代」を、自分の印象通りに表現しようとしたのだった。印象派はこうして誕生する。

 (1898年ピサロ 「オペラ大通り」)

(「オペラ大通り」開通のために壊される建物)

(ナポレオン3世からパリ市拡張の勅令を受けるオスマン男爵)

(1875年ルノワール「散歩に出かける子どもたち」)

(1877年ドガ「エトワール」)

(1879年モリゾ「ブーローニュの森の湖(夏の日)」)

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