江戸の旅ばなし10 旅籠

 旅人の宿泊施設「旅籠(はたご)」は一泊二食付きで、宿場だけに置かれていた。旅人は宿場以外での宿泊は禁止されていたので、早立ちして宿泊予定の宿場に明るいうちに到着する必要があった(昔の照明はとても暗かったので、日が暮れてから慣れない旅籠に入ると、風呂に入るにせよ食事するにせよ面倒だったから)。例えば東海道の53の宿場には、平均すると1宿場あたり55軒の旅籠があったようで、増水などで川留めされるなどの事態が発生しない限り、宿場の旅籠がいっぱいで泊まれないということはなかった。

 旅籠は、規模(間口の大きさ)によって「大旅籠」(間口五間以上)、「中旅籠」(間口四間前後)、「小旅籠」(間口三間以下)の3ランクがあり料金も異なったが、平均200文。また、規模以外にも遊女的な行為をする「飯盛女」(めしもりおんな)のいる「飯盛旅籠」と、いない「平旅籠」の二種類の旅籠があった。この飯盛女、もともと遊女であったが,幕府は江戸時代中頃から遊女取締りをきびしくしたため,飯盛と名を変えたものといわれる。享保3 (1718) 年幕府は飯盛女を江戸 10里四方の宿屋1軒につき2名,その他の宿もこれに準じると定めたが,これをおく宿は客が多くつくことから,なかなか守られなかった。

 この飯盛女は客引きも行った。強引な客引きをする旅籠の女は「留女(とめおんな)」と呼ばれ、多くの浮世絵にも描かれている。こうした強引な客引きや飯盛女の存在を迷惑と感じる旅人、遊興に使える資金のない旅人や女性は少なくなかった。そのような人々は安心して泊まれる宿を求めた。そんなニーズに応えたのが旅籠組合「浪花講」。浪花講公認の札を掲げた旅籠は、留女や大酒宴を禁じ、飯盛女をおかず、料金もリーズナブルで、旅慣れない旅人でも安心して泊まることができた。このシステムは広く受け入れられ、「三都講」、「東講」などの旅籠組合もつくられ、いろいろな講が良心的な経営を競うようになり、旅行ブームを後押しした。

 では、旅籠に泊まれない貧しい旅人はどうしたか?一泊30~40文程度で泊まれる宿があった。「木賃宿(きちんやど)」。自炊の食糧を持ち込み、煮炊きするための薪の代金(木賃)だけを支払うという簡易宿泊所。囲炉裏のある土間で食事をし、板張りの間で莚(むしろ)をかぶっての雑魚寝(ざこね)が基本。鍋や釜を借りるのは別料金だったようだが、それでも格安で泊まることができた。  ところで、参勤交代の大名や勅使(ちょくし。天皇の意思を直接に伝えるために派遣される使い)など、武家や公家などの公用の旅に利用されたのが本陣、脇本陣(同じ日に複数の藩が宿泊する場合、石高の少ない藩が脇本陣を利用)。庄屋や村役人、名主など、地元の有力者の家を休憩や宿泊用の定宿にしたものだが、門構えから玄関、書院まで整えた造りも多く、体裁を維持するのは経済的にも大変だった。そのため体裁維持の経費捻出のため、享保年間(1716~36)には本陣、脇本陣ともに空いていれば庶民でも宿泊できるようになった。

(広重「東海道五十三次之内 御油 旅人留女」)部分

(広重 豊国「双筆五十三次 蒲原 不二川 舟渡」 目録:「宿引」)

(『教草女房形気』) 

「濯ぎ」旅籠につくとまずこのサービスを受けた。自分で洗う場合もあったようだが。

(広重「東海道五十三次之内。 赤坂 旅舎招婦ノ図」)旅籠の内部

(北斎『道中画譜』関 旅籠)

(広重「木曾街道六拾九次之内 御嶽」)木賃宿

(広重「東海道五十三次之内 関 本陣早立」)本陣  川で米をとぐ男も描かれている

左で建っているのが旅籠の当主。大名宿泊中は「準家臣」として処遇され、大名から下賜された裃と刀を着用した。

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