江戸の旅ばなし9 東海道の旅④ 宮の渡し

 東海道で箱根に次いで厳しかったのが荒井(現在は「新居」と書く)の関所。海上一里(正確には、浜名湖の「湖上一里」)の「今切(いまぎれ)の渡し」を船で渡ると対岸の船着場のすぐ前にあった。この渡し、南に「今切口」(浜名湖の入口)を通して遠州灘、北には浜名湖を望む非常に景色の良い場所。それでも、女性にとってはこの渡し舟はこわかったようでできれば避けたかった。そのため、江戸方面からなら天竜川を渡ってすぐか、浜松市中から北へ行く「本坂(ほんざか)越え」という抜け道(合法的ルート)を利用。女性の旅人がよく通ったので「姫街道」とも呼ばれた。女性がこのルートを選んだ理由は他にもあった。女性に厳しかった「荒井の関所」を通らず、緩やかな「気賀(きが)の関所」を通れたからだ。また「今切(いまぎれ)」の名前が不吉なので避けたかったことも関係していたようだ。

 しかし、東海道には「今切の渡し」よりはるかに長い「宮の渡し」があった。「宮の宿」(熱田神宮門前の地。現在の熱田)から「桑名」まで海上七里(これは満潮時の陸地沿い航路の距離で、干潮時の沖廻り航路は約10里【40㎞】あった)を船で渡ったので「七里の渡し」と呼ばれた。この渡し、一番船は早暁に出るが、夕方は治安上、七つ(午後4時)になるとぴたりと停止。そのため七つすぎに宮の宿に着いた旅人は、必ずここで宿泊するので旅籠屋は大いに繁昌した。そのため宮の宿は、天保年間(1830~43)には248軒という日本一の旅籠数を数えるに至った。

 海上七里の旅は、晴れて波静かでうららかな日は素晴らしかったようだ。北東方向に、緑濃い森につつまれた熱田宮、それに並んで金の鯱(しゃちほこ)が天守閣の屋根に輝く名古屋城。北西方向には木曽川、揖斐(いび)川の河口から、伊勢平野の広がる先に、鈴鹿の山々が波打っている。そして南には、大海へ続く伊勢海(伊勢湾)が見渡す限り続いていた。船賃54文、好天で4時間(ただし、しけると7時間)の船旅。困ったのは生理的欲求。どう処理したか?男は竹の尿筒(しとづつ)を使用。舷(ふなばた。船端)に立ったまま筒先を水上へ出し直接放尿。船が揺れると、とんだ粗相をする羽目に。女性はどうしたか。瓜をくりぬいた天然のおまるを使い、こっそり瓜ともに船端から捨てたらしい。

 これでは女性は、「今切の渡し」以上に避けたかったことだろう。そんな女性たちは東海道の脇往還「佐屋街道」(「佐屋路」)を通った。このルートは、陸路で熱田から岩塚・万場・神守を経て、佐屋湊から川船で桑名へと至る経路で、距離が陸路6里、水路3里、計9里となる七里の渡しの迂回路。船酔いをする人や、犯罪に巻き込まれやすい女性や子供の旅人からも敬遠された七里の渡しの迂回路として盛んに利用され、ここも「姫街道」とも呼ばれたという。ただし、この街道は単なる抜け道ではなく、商用や社寺参りの人々、参勤交代の大名行列、さらにはオランダ商館のシーボルトや十四代将軍家茂、明治天皇も通行しており、永年にわたり日本の幹線道路網の一部を担ってきた。個人的なことだが、津島出身の私は、高校まで毎週のようにこの街道を通って釣りに出かけていた。

 (広重「東海道 五十三次 荒井」)船を降りるとすぐに関所

(新居関所と浜名湖周辺の主要街道)

(広重「東海道五十三次 宮」)

(広重「東海道 五十三次 宮 七里の渡し 熱田の居 寝覚の里」)

(『尾張名所図会』「七里渡船着 寝覚里」)

(広重「東海道五十三次之内 桑名 海上七里ノ渡口」)

(佐屋街道と周辺の主要街道)

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