江戸の旅ばなし8 東海道の旅③ 大井川

 東海道には、大河なのに船がなく、徒歩わたしだけに頼らざるを得ない場所があった。酒匂(さかわ)川、興津(おきつ)川、安倍川、大井川である。当時の河川は旅人が自力で渡ることは許されていない。もし路銀節約のため、人足を使用せず、決められた以外の場所から川を渡ったことが判明すれば、重罰に処せられた(あくまで建前上だが)。そのため、旅人は川越人足というプロに依頼するためにまず川会所に行く。ここには毎日川名主と川年寄が詰めており、渡河の優先順位から水位の深浅の確認をし、川越えの料金を決定したりした。大井川の場合、水深によって5段階にランク付け。「股通(またどおし)」(股下)48文、「帯下通(おびしたどおし)」(帯の下)52文、「帯上通」(帯の上)68文、「乳通(ちちどおし)」(胸まで)78文、「脇通(わきどおし)」(脇まで)94文。そして、水深が5尺(約150センチ)を超えると川越えを禁じる「川留め」になり、解禁まで2日から1週間程度かかった。長い川留めとして、慶応4年(1868)の28日間という記録が残っている。

  逗留の間、暇つぶしに女郎をよんだり賭博に手を出したりして無駄遣いをし、無一文になってしまう愚か者もいたようだ。また、川留め解除になっても、優先順位(最優先は幕府の文書を運ぶ「継[つぎ]飛脚」、続いて幕臣、その次に大名一行)があったので庶民はさらに待たねばならなかった。特に参勤交代の大名行列に遭遇すると大変。大渋滞で、川のすぐ手前の島田宿はもちろん、その手前の藤枝宿も満員。もう一つ手前の岡部宿で泊まることを強いられた。

 川越えのできる時間は明け六つから暮れ六つまで。旅人は川会所で「川札」(人足賃用「油札」と蓮台賃用「台札」の二種類)というチケットのようなものを買い、川越人足をあっせんしてもらう。船渡しと違って武士も有料。肩車で渡る「徒歩(かち)渡し」なら人足一人分で川札1枚、「蓮台(れんだい)」という乗り物に乗る「蓮台渡し」なら最低4人必要だから川札4枚となる。大名などの身分の高い武家がもっぱら使用した「大高蘭蓮台」は、駕籠をそのまま乗せ、なんと20~30人がかりで担いだ。ちなみにこの場合、台札だけで32枚、人足用16枚(16人として)、補助人足用4枚(4人として)の合計52枚、並水(「股通」)でも48文×52=2496文、一文20円で計算しても5万円もかかった。

 大井川は川幅720間(約1300m)という東海道第一の大川。俗用に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」というように、南風が吹けば水が増し、西風が吹けば減るというお天気任せの難所。しかし難所だったからこそ、大勢の旅人を対岸に渡す仕事を独占して栄えたのが、両岸にある島田と金谷(かなや)の宿だった。江戸時代に未婚の若い女性が結った典型的スタイル「島田髷(まげ)」も、通説では島田宿の遊女の髪型が原型だとされる。

 ところで、幕府が大井川に橋を架けようとしなかったのは、江戸初期はともかく、幕府権力が確立し平和が続くようになってからは、江戸の安全を守るためではない。地元の島田・金谷両宿の猛反対のせいだった。両宿場で、幕末には1200人以上いた川越し人足の失業を防ぐため、宿場の衰微を防ぐためだった。それが理由なら、旅人も少しでも楽に安く渡ろうと考えるのは当然。それが「廻り越し」。地元の人に浅瀬を教わって対岸の川尻にわたったが、それは貧しい旅人の常識になっていた。それだけではない。天保9年(1838)には、川原の洲と瀬を結ぶ仮橋が河口部と島田の間の20キロメートル足らずの間に6か所も架かっており、24文から40文という安い通行料で旅人を渡していた。こういったことも、江戸の旅ブームを支えていたのだ。 

(国貞「大井川歩渡之図」)

(広重「東海道五十三次 嶋田」)

(広重「東海道五拾参次之内 島田 大井川駿岸」)

(北斎「東海道五十三次絵尽」「島田」)

(歌麿「高名美人六家選 再出 難波屋おきた 判じ絵) 島田髷

(広重「東海道五十三次之内 島田 大井川駿岸」行書版)

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