江戸の旅ばなし7 東海道の旅② 箱根

 江戸幕府は、謀反を防ぐために50数か所の関所を設け、出入りする人間やその荷物を厳重に調べた。中心的課題は二つ、「入鉄砲」と「出女」。江戸に武器が持ち込まれないようにすることと、人質として江戸住まいになっている大名の妻子が逃げ出さないようにすることだ。確かに江戸時代初期は、戦国時代の延長のような不安定な世の中が続いていて、徳川幕府はまだ充分安泰とはいえなかった。そのため、西国の大名たちに反乱を起こすきっかけを与えないように、十分注意を払う必要があった。しかし、幕府の基礎が固まり、元禄の高度経済成長期をへて、政権は安定していき、通関手続きも次第に緩められていく。元禄4年(1691)3月11日にオランダ商館長の随員として箱根の関所を通ったドイツ人医師ケンペルは、次のように記している。

「・・・関所にさしかかったが、日本人はみな駕籠や馬から下り、かぶり物をぬいで、人も荷物も点検を受けたが、それはただうわべだけ行われたに過ぎなかった。万一女性が男装している場合には、そのために任命されている婦人が手でさわって取り調べを行うことになっている」(『江戸参府旅行日記』)

 日本中で最も取り締まりの厳重な関所だった箱根の関所。特に出女のチェックは厳しかったようだ。寛永5年(1628)に、「女手形」の持参が義務付けられたため、雇われていた地元の民間女性(関所勤めの足軽の母や妻など)の「改め婆【ばばあ】」(箱根関では「人見女【ひとみおんな】と呼ばれた」が検分を行った。女手形と見比べて髪型、年齢、ほくろ、ハゲなどの特徴まで確認。髪に隠したものがないか調べるために髷をほどいたり、時には着物も脱がせた。これはかなり時間がかかる。

 多くの下女を伴った高貴な身分の女性の女改めはどうしていたか?出張取り調べを行っていたようだ。事前に、役人と記録係、改め婆などの数名が宿泊先の本陣や関所前の休憩所に出向いてチェックを行ったのだ。 ところで、このような身体的特徴の取り調べ。高貴な女性たちは当然猛反発した。関所の方も、なるべく問題を起こしたくないという心理も働き、調べは次第にあいまいになっていく。そして、享和3年(1803)には「疵(きず)および髪の模様は手形面に書き載せ申さず」という達しが出されるに至った。

 では一般の女性たちの取り調べはどうだったか?旅の途中で怪我をしたり、慣れない食べ物でニキビができたりということもある。抜け道はあった。 取り調べ前に、「袖元金」つまりワイロを婆の袖の下にすばやく差し入れると、髷をほどくふりだけで済んだのだ。

 それでも、できれば厳しい関所は避けたい。どうしたか?迂回ルートをとるのだ。もちろん、その場合も小田原藩の番所は避けられない。しかし、松浦静山『甲子夜話(かっしやわ)続編』にも記述があるが、旅籠が出した手形を持参すれば番所の通行も自由で、関所を通らずに三島に行くことができた。また、関所を通らない抜け道を知っている地元の人間に金を払って案内してもらう「関所抜け」もおこなれた。もちろん、これは立派な「関所破り」で、幕府が定めた御定書百科箇条では死罪(磔)。しかし庶民の女性の旅が盛んになってきた安永年間(1772~81)頃には、女性をターゲットにした関所抜けの案内人が大手を振ってあらわれた。案内する側にも依頼する側にも、関所破りをするなどと言う大それた意識は微塵もなかったようだ。江戸後期、手形も持たずに旅立った多くの女性の「抜け参り」の背景には、このような関所の実態もあったのだろう。

 (箱根関所跡)

(芳盛「東海道 箱根」)

文久3年(1863)に将軍家茂が箱根関所を通過したときの様子。大番所の前で土下座する関所役人たちと行列が描かれている。

(箱根関と東海道・脇往還)

(国貞、広重「双筆五十三次 荒井」)性別チェックを行う「改め婆」

(広重「東海道五十三次 荒井」)

(北斎「御関所 荒井」)

(広重「木曽海道六拾九次之内福しま」)

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