江戸の旅ばなし6 東海道の旅① 川崎

 幕府は反乱を防ぐために諸国の川に橋を架けることを制限したので、川を渡るときは「船渡し」または「徒歩(かち)渡し」を利用しなければならなかった。江戸から東海道を西に向かうと、最初に船で渡る川が「六郷川」。多摩川の最下流の部分を昔は六郷川と呼んでいた。貞享(じょうきょう)年間(1684~88)までは、両国橋、千住大橋と並ぶ江戸の三大橋の一つ、全長200m近い「六郷橋」が架かっていたが、洪水のたびに流されるので、元禄元年(1688)以降、架橋を止めて渡し舟(「六郷の渡し」)にした。渡し賃は、十文。船頭に支払うのではなく、舟会所に置かれていた賽銭箱のような箱に入れて支払った。葛飾北斎が「五十三次 北斎道中画譜 川崎」で詳しく描いている。そして集められた渡し賃は、川崎宿の経営に運用された。

 川崎宿は、東海道五十三次の中で五十三番目にできた宿場、つまり最も新しい宿場である。品川宿と神奈川宿の間が五里(約20km)離れていたので中間の宿場としてできたが、当初は宿泊客も少なく自立するのは難しかったようだ。それが少しずつ賑わいを見せるようになる。江戸を発った人がここに昼頃着く、また江戸を目指す人がここを昼頃発てば、明るいうちに江戸につけることから、川崎で昼食をとる人が増えていったからだ。

 川崎の茶屋でナンバーワンになったのが多摩川を渡って、すぐの場所にあった「万年屋」。奈良の興福寺や東大寺で食べられていた「奈良茶飯」(米に、勝栗、小豆、大豆、粟などを混ぜて、お茶の煎じ汁で炊いたご飯)に目をつけ提供するようになり人気店になった(幕末で一人前38文と格安)。『江戸名所図会』「河崎万年屋 奈良茶飯」にその賑わいぶりが描かれている。出している料理は奈良茶飯だけではなかったようで、入口では新鮮な魚が持ち込まれ、奥では一匹まるまる皿に載せた料理も運ばれている。『東海道中膝栗毛』の弥次さん、喜多さんもこの万年屋に腰をおろしている。 「 六郷の渉(わたし)をこへて、万年屋にて支度(したく)せんと、腰をかける

万年やのおんな『おはようございやす』

  弥二郎兵へ『二ぜんたのみます』

    きた八『コウ弥二さん見なせへ、今の女の尻(けつ)は去年までは、柳で居たつけが、もふ

        臼になつたア。どふでも杵(きね)にこづかれると見へる。』        」

 相変わらずの猥談。このあと、二人は店を出てすぐに大名行列とすれ違う。

「さきばらひの男、一人は六十ぐらひのおやぢ、一人は十四五のやつこ、いづれも宿の人足なり」 

 いずれも大名家のものではなく、川崎宿で肉体労働などの雑用をしている人足。これでは「下にい、下にい」と先払いしてもあまり権威はなく、弥次さん、喜多さんもだじゃれをいいながら見物。  大名行列と言うと、遭遇した者たちはみな頭を地面に擦り付けて土下座、と思われがちだが少なくとも江戸後期の江戸では違っていた。広重「東海道五十三次之内 品川 諸侯出立」には、品川宿を通過する大名行列が描かれているが、見送る茶店の女たちは立ったままだ。小林清親「正月元日 大名規式行列図」では、立ったままの人もいれば座っている人もいる。いずれにせよ、土下座して見送る人は全くいない。北斎「冨嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二」でも、やや離れているとはいえ、二人の女性はくつろいだ様子で行列を眺めている。 もちろん地方では状況は異なっていたようだが。

 (小林清親「正月元日 大名規式行列図」)


(広重「東海道五十三次之内 品川 諸侯出立」)

(北斎「冨嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二」)

(国輝「末廣五十三次 府中」)

(広重「東海道五十三次之内 川崎 六郷渡船」)

(北斎「五十三次 北斎道中画譜」川崎)

(『江戸名所図会』「河崎万年屋 奈良茶飯」)

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