江戸の旅ばなし5 交通手段② 駕籠(かご)

 駕籠は馬と比べて、少なくとも人を二人雇わなくてはいけないので、馬より高価だった(江戸市中では、平均すると一里あたりおよそ400文)。しかし滝沢馬琴も『羇旅漫録(きりょまんろく)』の中で、「馬に乗ると体が楽で、眠気をもよおし落馬するから気をつけよ」と書いているように、馬は落馬の危険があった。そのため、乗り慣れない旅人は馬より駕籠を好んだ。また江戸においては、町人が馬に乗ることは禁止されていたので、江戸で路上を歩かず行くには駕籠しかなかった。 

 駕籠にも種類があった。大名などが乗る引戸つきのものは「乗物(のりもの)」と呼ばれ、6人担ぎの立派なものもあった。庶民の乗る駕籠で最上のものは「法仙寺駕籠」。これに乗る場合は、裃(かみしも)を着用しなければならない。四方は板張りで、黒塗りや春慶塗りで仕立てられていた。これに次ぐのが、「あんぽつ駕籠」。道中では基本的に使われず、町籠のひとつだった。もっとも一般的な駕籠は「四ツ手駕籠」。舁(か)き棒の下に四本の竹をつけ、竹で編んだ座席を吊るしてある。屋根があり、上等なのは周囲に畳表を垂らせるので、少しぐらいの風雨なら乗客は濡れない。うっとうしい時は巻きあげておいた。町人だけでなく、武士でも中以下の身分ではこれに乗るのが普通だった。これに対して、山を登るときに使う「山駕籠」は、特に軽くできていた。担い棒も釣手も客の乗る台座もすべて竹細工、頭上の日覆も屋根形の網代編(あじろあみ)。非常に粗雑な乗り物だったが、それでも馬以上の贅沢だった。

 馬と違って駕籠には公定料金のようなものはなかったようで、流しのもの(「辻駕籠」。今のタクシーに相当する。ハイヤーのように駕籠屋に頼んで駕籠かきを派遣してもらうのは「宿(しゅく)駕籠」)を街道で拾い、相対で料金を決めるしかなかった。例えば『東海道中膝栗毛』。弥次さんと喜多さんは、藤沢宿の東端から相模川(「馬入[ばにゅう]の渡し」までの2.7里(約10.8キロ)を行くのに、最初は350文と持ちかけられたが150文に値切り、最後に200文と言って、「安いが行きますべい」と言わせている。公定料金がないためトラブルは絶えなかった。また駕籠は狭く窮屈で相当揺れるから酔う人も多かった。だから大名行列でも殿さまは駕籠に乗るが、すぐ飽きて、家来と一緒に歩いたり、馬に乗ったりした。

 ところで、普通の駕籠は前後二人で担ぐが、相撲の力士のような大男はどのように担いだか?後棒(うしろぼう)の位置に直角に棒をくくりつけて、前を一人、後ろを二人で担ぎ、さらに交代要員を一人つけて順繰りに肩を替えて行った。また「早駕籠」も五人がかりだった。前曳き、後押しと横に肩代わりの人足がつき、急使をのせて昼夜兼行で走った。元禄14年(1701)、浅野長矩の刃傷を知らせる早駕籠は、江戸―赤穂間170里を四日半で走ったと言われ、もっとも早い記録を残している。

 (『東海道名所図会』「安倍川」) 大男の運び方

(広重「五十三次 白須賀」) 「女乗物」

(『熱海温泉図彙』) 「法仙寺駕籠」

(英泉「岐阻道中 熊谷宿 八丁堤景」) 「あんぽつ駕籠」

(『伊勢参宮名所図会』「中川原」) 「四ツ手駕籠」

(豊国「二五五四好今様美人(にぢうしこうとうじのはなもの) 旅好」) 「山駕籠」

(広重「五十三次 岡部」) 「山駕籠」

(広重「東海道五十三次之内 草津 名物立場」保永堂版) 「早駕籠」

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