江戸の旅ばなし4 交通手段① 馬

 現在と江戸時代では、旅のスピードが決定的に違っていた。何しろ基本は徒歩だったから。 現在なら新幹線と近鉄特急を利用すれば東京からその日のうちに到着できる伊勢も10日以上かかった。『東海道中膝栗毛』(ちなみに「膝栗毛」とは、膝を栗毛の馬の代わりとして旅すること、つまり「徒歩の旅」と言う意味)の弥次さん、喜多さんは11泊12日。日本橋をスタートして42km離れた戸塚を最初の宿泊地とするペースで歩いてだ。現代人からすれば、江戸時代の人びとはかなりの健脚だったようだ。それでも、長旅ともなれば、少しは楽をしたい日も出てくる。そんな時は馬や駕籠(かご)を利用した。ただし、人間が担ぐ駕籠はもちろん、馬も馬子(まご)について歩くだけだから、スピードは自分で歩くのと変わらなかった。

 馬の利用は3種類。荷物だけ運ぶのは「本馬(ほんま)」、人と荷物を運ぶのは「乗掛(のりかけ)」、人だけ乗せるのは「軽尻(からじり)」。浮世絵を見て面白いと思ったのは「三方荒神(さんぽうこうじん)」。馬の背に1人が乗り、左右につけた木の枠に1人ずつ入って三人乗りする軽尻の一種。もちろん、重量制限があるから大人3人は乗れない。浮世絵でも、描かれているのは子供ばかり3人とか母親と子供2人のパターン。大人の女性二人の「二方荒神」というのもあった。この「三方荒神」という奇妙な名前、日本特有の仏教における信仰対象の1つ「三宝荒神」に由来。仏・法・僧の三宝を守護するという神で、三面六臂(ろっぴ)の姿が3人乗りの姿と重なったのだろう。文政9年(1826)に長崎と江戸を往復したシーボルトは、東海道でこの「三方荒神」を目にして「家族で話しながら旅ができる」ことに感心して日記に書き残している。

 馬を利用する場合の料金は、一頭を一里雇うと200文(1文20円として4000円)くらい。安くはなかったが、楽ができるだけでなく、馬子との道すがらのおしゃべりの中でその地の伝説や景勝地、名物などを教えてもらえるので、観光ガイドの役目も果たした。この点は、現在のタクシーの運転手と似ている。もちろんいつの時代もその人物次第で大きな差はあるが。

 では、こうした馬を利用したい場合どこで頼めばよかったか?もちろん「流し」などない。宿場の問屋場(といやば)へ行かなければならない。ここは宿場の中心で、宿役人が常駐していて、人馬や駕籠の申し込みを受け付けたり旅籠の紹介をした。馬に人、荷物を運んでもらう場合、重さが料金に反映したが、その計測を行う「貫目改所(かんめあらためしょ)」も問屋場に併設されていた。問屋場を通さず、非公式に格安で運ぶと言われて頼むと、別の場所に連れて行かれたり、オプション料金がかさんで結局多額の代金を取られたりという被害もあったため、問屋場を通すのが旅の鉄則だった。けちるとろくな目に遭わないのはいつの時代も変わらない。

 (勝山春山「二見ヶ浦詣」) 「三方荒神」

(勝山春山「二見ヶ浦詣」)部分 「三方荒神」


(広重「東海道五十三次之内 吉原 左富士」)「三方荒神」

(『伊勢参宮名所図会』豊久野 銭掛松」)部分 「三方荒神」

(三宝荒神)

(北斎「東海道五十三次 四日市」) 「二方荒神」

(広重「五十三次 池鯉鮒」)  「乗掛(のりかけ)」

(広重、豊国「双筆五十三次 浜松」) 「乗掛(のりかけ)」

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