江戸の旅ばなし2 江戸の旅ブーム② 「お陰参り」

 『東海道中膝栗毛』で弥次郎兵衛と喜多八が向かったのは伊勢だったが、江戸時代、旅の目的地として最も人気があり、大勢の旅人が目指したのは伊勢だった。平和で安全な江戸時代になって伊勢参りは最盛期を迎え、普通の年でも一年間に50万人前後の参詣者があったが、遷宮(20年に一度の「式年遷宮」)の翌年などは「お陰参り」といって、伊勢神宮への大量群参がみられた。

 この「お陰参り」。慶安3年(1650)に始まり、60年ごとに伊勢の神威があらわれると噂されたが、実際には宝永2年(1705)、享保3年(1718)、享保8年(1723)、明和8年(1771)、文政13年(1830)に、爆発的な流行が見られた。伊勢松坂に住んでいた国学者の本居宣長は、宝永2年のお陰参りの様子を『玉勝間(たまかつま)』の中に記しているが、4月9日から5月29日までの50日間だけで、参詣者が362万人に達したと書いている。さらに、お陰参りが頂点に達した文政13年の数字はすさまじい。参宮者数457万9150人。閏3月26日は一日だけで、なんと14万8000人が参宮した。

 こうした参詣者はもちろん男ばかりでなかった。宝永2年のお陰参りの時に、4月21日から一か月間に京都を通過した伊勢参詣者の人数を京都所司代で調べたところ、男女の比率は3対2ぐらいだったという。こうした女性の中には、乳飲み子を抱いた母親まで紛れ込んでいた。驚くのは、親に伴われていない子どもだけの参詣者も大勢いたこと。同じ京都所司代の調査では、その人数を1万8536人と記録している。自宅や奉公先の店からある日突然抜け出して伊勢参りに行くのを「抜け参り」と言ったが、浮世絵や名所図会にも描かれており、それほど特別なことでもなかったようだ。『東海道中膝栗毛』の中にも、弥次さんたちは、神奈川宿を出たところで抜け参りの子どもに出会っている。 

  イセ参「だんなさま、壱文くれさい」  

   弥二「やろふとも。手めへどこだ」 

  イセ参「わしらア奥州」        

   北八「おうしうはどこだ」 

  イセ参「かさに書いてあり申す」

   弥二「奥州信夫(しのぶ)郡幡山(はたやま)村長松(ちょうまつ)・・・・」

 長松という名のこの子は、現在の福島県から歩いて伊勢参りに向かっていたのだ。このような「抜け参り」が可能だったのは、それを認める、あるいは援助する雰囲気が当時の世の中にあったということだ。沿道の住民たちは、伊勢参りをする人を援助することが天照大神に対する信仰のあかしになるという気持ちがあって、貧しい参詣者に喜捨した。こうしたことが、抜け参り、無銭旅行を可能にしたのだ。

(広重「伊勢参宮 宮川の渡し」)

(広重「伊勢参宮 宮川の渡し」)部分

(玉柳亭重春「文政十三庚寅春 御影参道の粧 間の山 あさ間岳」)

(広重 豊国「双筆五十三次 程ヶ谷 金沢海道山野風景」 目録:「伊勢参」)

(『金草鞋』 抜け参り)

柄杓を持つ抜け参りの少年。隣の大人の荷物持ちをしている。

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