「江戸の旅ばなし」1 江戸の旅ブーム①
十返舎一九(じっぺんしゃいっく)作の『東海道中膝栗毛』。駿河府中の生まれで、江戸は神田八丁堀に住む怠け者の弥次郎兵衛と居候の喜多八が、パッとしない人生を変えるべくお伊勢参りへ行こうと江戸を出発し、愚行・失敗を繰り返しながら東海道・京都・大坂を旅する滑稽談。各地の名所・風俗なども紹介し、好評を博して続編を20年にわたり書き続けた。旅ブームの火付け役になったとされるが、その原因の一つは、弥次郎兵衛・喜多八の愚行・失敗が、旅に出ることによって地域社会のさまざまなルールや制約から解放されたいと願う庶民の心情を典型的に描いてみせたことにあるようだ。
この本が刊行されたのは、徳川家康が江戸に幕府を開いてからおよそ200年後の享和2~文化6(1802~09年)。しかし、日本人の旅行好きはこの頃始まったわけではない。長崎の出島に医師として赴任したドイツ人ケンペルは、オランダ商館長(出島の代表者)とともに長崎と江戸の間を二往復し、『江戸参府旅行日記』という克明な記録を残したが、その中で日本人の旅行者について次のように書いている(元禄4年【1691】)。
「この国の街道には毎日信じられないほどの人間がおり、二、三の季節には住民の多いヨーロッパの都市の街路と同じくらいの人が街道に溢れている。私は、七つの主要な街道の内で一番主な前述の東海道を四度も通ったので、その体験からこれを立証することができる。・・・他の諸国民と違って、彼らが非常によく旅行することが原因である」
ただし、この記述から旅が庶民レベルにまで広がっていたとするのは早計だ。宝永5年から正徳元年(1704~1711)まで東海道川崎宿の名主を務めた田中丘隅(きゅうぐ)は、幕府に提出した民政に関する意見書『民間省要』の中でこう書いている。彼の家は本陣と問屋(といや)を兼ねていたから、直接旅人に関わりあうことが多く、元禄直後の街道の有様をつぶさに見ていた。
「旅というものはそれだけの用がなければすることはないものである。武士は領主の命令に従って旅をし、農工商はそれぞれ家職のために旅をし、また後生の菩提を願って信心のために国々を巡礼修行をする者がいる。しかし詩歌の趣のためや、慰み遊山のために旅行する者など、世に稀である」
『東海道中膝栗毛』の100年前までは、旅をしていたのは必要に迫られた者たち、すなわち君命を帯びた武士や、商取引のために街道を上下する商人や職人、信仰一途な巡礼者たちに限られ、気晴らしに旅をする者などほとんどいなかったのである。芭蕉が門人の河合曾良と江戸を発ち『奥の細道』の旅に向かったのは、崇拝する西行の500回忌にあたる元禄2年(1689年)。宿場がまだ十分に整備されていない日本海側も旅するが、それは当時にあっては「慰み遊山のために旅行」した稀有な例だったのである。
このような状況が100年たつと明らかに変化し、旅が庶民レベルにまで広がる。それには、何度となく繰り返された「お蔭参り」と、主人や家族に無断で伊勢へ出かける「抜け参り」が黙認されていたことの影響が大きかったようだ。
( 広重「東海道五十三次之内 川崎 六郷渡船」)
(ケンペルがスケッチした江戸参府の行列)
(落合芳幾『東海道中栗毛弥次馬』「三島」)
すっぽんに噛みつかれ大騒ぎ。その間に客に扮していた泥棒にお金を盗まれる。
(落合芳幾『東海道中栗毛弥次馬』「蒲原」)
二階の若い娘に夜這いしたが、間違えて婆さんの布団に忍び込み大騒ぎ。宿の仏壇に落っこち宿屋の主人に怒られる。
(落合芳幾『東海道中栗毛弥次馬』「桑名」)
桑名と言えば名物焼き蛤。「その手はくわなの焼き蛤」。大きな蛤に手をかまれる喜多さん
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