ナポレオンをめぐる女たち⑨ ジョゼフィーヌ5
皮肉なことに、ジョゼフィーヌがナポレオンを真摯に愛するになるのと反対にナポレオンのジョゼフィーヌに対する熱烈な愛情は冷めていき、他の女性達に関心を持つようになる。また、手にした権力維持のために跡継ぎを切望するようになる。しかしジョゼフィーヌには期待できない。当初、ナポレオンは子ができないのは自分に原因があると考えていた。ジョゼフィーヌは先夫との間に二人の子どもをもうけていたからだ。しかし愛人ヴァレフスカ伯爵夫人が懐妊するに及んで、自分の生殖能力へ自信を持つようになる。またナポレオンの負傷、暗殺未遂事件をきっかけに、まわりもナポレオンの跡継ぎの必要性、そのための再婚を強く望むようになっていく。ナポレオンは悩む。以前のような感情とは違っているとはいえ、ジョゼフィーヌを愛していないわけではない。ともに困難なフランスの国情を安定化させるために戦ってきた戦友、同志のような存在の彼女と別れるのは忍びない。しかし、ナポレオンの跡継ぎを望む思いの強さが離婚を決断させる。
再婚相手の候補はロマノフ家(ロシア)とハプスブルク家(オーストリア)。いろいろ議論がなされたが、結局、ロシア皇女はロシア正教徒でカトリックへの改宗は困難であることが決め手となって、多産の家系であるハプスブルク家皇女マリー・ルイーズが選ばれた。ナポレオンはこう言ったとされる。
「余に必要なのは、その子宮だ!」
この時ナポレオン40歳、マリー・ルイーズ18歳。このマリー・ルイーズ、ナポレオンのことをどう見ていたか。ナポレオンは1805年、1809年と二回にわたってウィーンに攻め入り占領した。皇帝一家はそのたびにシェーンブルン宮殿を追い出された。彼女は幼いころからナポレオンのことを恐ろしい憎むべき男だと教えられ、「ナポレオン」と名付けた人形をいじめながら育ってきたのだ。そんな新婦をナポレオンはやさしく気遣う。6歳年上で母親のように甘えられる存在だったジョゼフィーヌとはまるで違う。結婚直後、マリー・ルイーズはメッテルニヒ(オーストリア外相)にこんな発言をしている。
「私はナポレオンを怖いとは思いません。けれど、ナポレオンのほうが私を怖がっているのではないかと感じ始めています。」
1811年3月20日、大望のナポレオン二世誕生。イタリアをも配下におさめた皇帝の跡継ぎと言う意味で「ローマ王」と呼ばれた。一日に何度もローマ王の部屋を訪れるほど、ナポレオンはローマ王をこよなく愛した。しかし、その代償はあまりに大きかった。ナポレオン自身、1813年6月末のメッテルニヒとの会談でこんな発言をしている。
「余は、オーストリア皇女を妻にするという途方もない愚行を犯した。・・・・この過ちは おそらく、余の玉座を失わせるであろう」
マリー・ルイーズとの結婚あたりからナポレオンの栄光は急速に陰りを見せ始める。
(ブノワ「ローマ王」)
(ポット「ジョセフィーヌに離婚の決意を伝えるナポレオン」)
(コンピエーニュに到着したナポレオンと新婦マリー・ルイーズ)
ナポレオンは女性に関しては生涯リアルに見ることができなかったように思う。そこがクレオパトラにさえ惑わされなかったカエサルとは違っている。
(フランソワ・ジェラール「マリー・ルイーズとナポレオン2世」)
(ナポレオンとローマ王)
(オーストリアの政治家メッテルニヒ)
ナポレオンとマリー・ルイーズの結婚はメッテルニヒの策略だったともいえる
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