蕎麦の話⑧ 「夜蕎麦売り」
明暦三年(1657)一月、江戸の八百八町に火の手が拡がり、江戸市街の三分の二が焼け跡となった。回向(えこう)に燃やした振袖が火元になったので「振袖火事」と言われた「明暦の大火」である。この火事の後、江戸では復興景気で手間賃が急騰。各地から職人が大挙して江戸に入り込み、それをきっかけに「振売り」(「棒手振」 【ぼてふり】。店を構えず,町々を商品の名を大声で呼びながら売歩いた行商人)が激増した。幕府は明暦の大火の4年後の寛文元年(1661)、火事の原因になるとして煮売りなど、夜の振売り禁止のお触れを出したほどだった。
この煮売りの中から夜蕎麦売りが頭角を現し、貞享三年(1686)には煮売りの筆頭にのし上がる。この夜蕎麦売り、江戸川柳ではその30%くらいが「夜鷹蕎麦」と呼ばれている。なぜ「夜鷹」というニックネームがついたのか。主な説は二つ。ひとつは、「夜鷹」(夜、街頭で客を引いた娼婦。昼間、空を飛びまわる鷹は夜は寝るだけ、つまり、「夜鷹」は「寝るだけの女」というのが語源のよう)が得意客であったことから生まれたとする説。手ぬぐいでほっかむりして小脇に丸めたゴザを抱え客を引くのが「夜鷹」のイメージ。
「夜たかそばねござの上へもりならべ」
夜鷹には「二十四文」の異名があり、相場は二十四文だった。
「客二つ つぶして夜鷹 三つ食い」
客二人で24文×2=48文。蕎麦三つ(16文×3=48文)食べられるということだ。
もう一つの説は、八代将軍吉宗の頃に「お鷹蕎麦」(お鷹匠用の蕎麦。鷹狩は真冬が本番。前夜から鷹場に赴き、将軍などの到着を待機する鷹匠にとって体を温めるかけ蕎麦はありがたかった)の担ぎ売りが許可され、それはもっぱら夜の商いなので「夜鷹蕎麦」に転訛したのだ、という説。
いずれにせよ、夜蕎麦売りの客は、ずっと外にいて体が冷え切っている客とか、火鉢のそばや蒲団の中からお腹が空いて抜け出してきたりして、吹きっさらしの路上の屋台へやってきた客。
「夜そば切ふるへた声の人だかり」
何よりスピーディーなサーヴィスが求められる。注文を受けると、取っ手のついた細長いザルに、持ってきた蕎麦玉を入れて、熱湯の中でさっと湯通し。
「据風呂で腰湯をさせる夜鷹そば」
ところで、江戸時代の夜の街頭においては、水の使用も不自由だったため、夜鷹蕎麦は衛生的な食べ物ではなかった。そこで、清潔を売り物にした新たな夜蕎麦売りが登場する。「風鈴蕎麦」である。宝暦(1751~64)ごろに始まると言われるが、屋台に風鈴をつけていたので歩くたびに音を立てて客を呼んだ。
「風鈴やちんぷんかんのとしの暮」一茶
風鈴と言えば夏。それを冬の夜蕎麦売りの屋台に吊るしたのだから、意外性も十分だった。容器も異にし(夜鷹蕎麦の「丼」に対して、「大平椀」)、ぶっかけ(かけそば)のほかに、種物【たねもの】(最初は蕎麦の上に焼玉子・蒲鉾・松茸・椎茸・くわいなどを適宜取り合せて置いた「しっぽく」)を売ったりして夜鷹蕎麦との差異を見せたが、やがて夜鷹蕎麦も真似て風鈴をつけるようになり、内容、値段もかわらなくなる。両者の見分けはつきにくくなり「夜鷹蕎麦」、「風鈴蕎麦」の名前も消えて行った。
(風鈴蕎麦『忠臣蔵前世幕無』)屋台に風鈴
(国貞「神無月はつ雪のそうか」 )客は夜鷹
(夜鷹そば屋 『日永話御伽古状』)
(国芳「源氏雲浮世画合(げんじくもうきよゑあハせ) 夕顔 矢間氏の室織江」 夜鷹)
典型的な夜鷹スタイルだが、実際はこんなに粋ではなかっただろう
(風鈴蕎麦『大通人穴サガシ』) 屋台に風鈴
(豊国「夜そばうり風鈴松五郎」)
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