蕎麦の話② 蕎麦と寺院1

 江戸四大名物食と言えば、すし、天ぷら、蕎麦、うなぎ。このうち、蕎麦以外は魚介類、つまり生臭物(なまぐさもの)。蕎麦だけがそれと無関係なこともあって、蕎麦文化は寺院と関りながら普及、進展してきた。

 蕎麦は日本原産と思われがちだがそうではない。原産地は、通説では東アジア北部、アムール州の上流沿岸から中国北東部にわたる一帯とされるが、最近では中国西南部山岳地帯の雲貴高原(雲南省)だとする説が有力になっている。日本への伝来ルートについては①朝鮮半島から対馬 ②シベリアから北日本 ③中国から九州 など諸説あるが、日本への伝来は古く、稲作が始まる以前と言われる。埼玉県岩槻市の真福寺泥炭層遺跡(B.C.900~500年)から蕎麦の種子が出土しているし、高知県佐川町の縄文時代初期の地層からは蕎麦の花粉が見つかっている。

 しかし、蕎麦が縄文時代から栽培されていたにも関わらず、食料として余り発展しなかったのは、製粉が難しかったことが主な理由のようだ。摺り臼では甚だ効率が悪く、多くの時間と労力を必要とし、そのため日々の食事の糧(かて)としては敬遠されたと考えられる。この状況を変えたのは、京都五山のひとつ臨済宗東福寺を開山した聖一国師。製粉の画期的生産手段は水車挽だが、その水車の設計・見取図を宋から仁治二年(1241)に持ち帰ったのである。そして江戸時代になって水車挽は広く普及する。開墾奨励による蕎麦の作付面積の増加とともに、水車挽による蕎麦粉の飛躍的な生産性アップが、蕎麦打ち技法の向上等による消費拡大を支える基盤となった。

 蕎麦と寺院に関わる伝承として有名なのは親鸞上人の「蕎麦喰木像」事件。親鸞が比叡山で修行中のできごとである(親鸞は当時「範宴」といい、29歳まで天台宗で修行)。範宴は毎夜、ひそかに京都六角堂へ百夜の祈誓に通っていた。ところが、仲間の僧たちは「範宴は毎晩、叡山を抜け出して京の街へ遊びに行っている」と非難。師の天台座主慈円大僧正は、夜の範宴の存否を確かめるために僧侶を集めて蕎麦振舞いを催した。前もって範宴は、自分の姿を叡山杉で彫っていたので、代わってその木像が出席し、みなと一緒に蕎麦を食べた。一同には、範宴が蕎麦振舞いに列席したとしか見えず、噂はピタリと鎮まった、という話である。この「蕎麦喰木像」、天保五年(1834)に京都の法住寺(東山区。三十三間堂の向かい)にうつされ現存している。

 ところで天台宗比叡山延暦寺と言えば、「千日回峰行」(975日で一千日とし、残り25日は一生かけて行じる)が有名。千日かけて比叡山の礼拝場所などを巡り約4万キロ(地球1周分)を速歩する荒行だ。その975日の最も苦しい最後の百日の行では、五穀断ち(比叡山では、米・大麦・小麦・大豆・小豆を五穀とする)をする。そして、この荒行の百日間の命の糧(かて)が蕎麦なのだ。蕎麦は六根(六識【眼識, 耳識,鼻識,舌識,身識,意識】を生ずる六つの器官を清浄ならしめるとされる。そして、千日回峰行満願の日にも蕎麦粥が出される。 

(鍬形蕙斎『近世職人尽絵詞』夜鷹蕎麦の屋台)

(北斎「東海道五十三次 見附」)

(広重「名所江戸百景 虎の門外あふひ坂」)

真冬の早朝に金毘羅参りをしている寒行者を描いた図。中央に夜蕎麦売り

(比叡山延暦寺)

(「蕎麦喰木像」京都 法住寺)

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