蕎麦の話③ 蕎麦と寺院2「道光庵」

 江戸時代の享保年間、浅草の「称往院」というお寺の境内に子院「道光庵」があった。 道光庵の庵主は信濃の出身で蕎麦を愛好し、江戸随一の蕎麦打ち名人と称された。

「粉潔白にして甚好味也。茶店にあらねばみだりに人まねくにあらず。好事の人たって所望あれば即時に調ふる也。」(『続江戸砂子』享保20年【1735】)

 その美味しさの評判は口コミ情報で高まる一方。檀家や蕎麦通以外の人たちもどんどんやってくるようになり「今ではそば切屋のようになりたり」(『蕎麦全書』寛延4年【1751】)といった状況を呈する。

「蕎麦切はとりわけ江戸を盛美とす。中にも浅草道光庵の手うちそばは第一の名物也」(『絵本浅紫』明和6年【1769】)

 安永6年(1777)刊の三都の名物を記した評判記『富貴地座位』は、江戸・京・大坂の名物店を多く紹介しているが、「麺類之部」で道光庵を、寺でありながら本職のそば屋を押しのけて筆頭に上げている。 それほどの人気を博するとは、一体どのように食べさせていたのか。

              「道光庵女房のむせるしぼり汁」

 寺院であるから、もちろん魚のダシはとらない。特別辛い大根の絞り汁に醤油を落としてそれを浅椀に入れた蕎麦にかけて食べたようだ。そんな辛い汁で食べる蕎麦がどうしてそこまで人気だったのか。 

「汁が鹹(から)いのだからうまかろうはずはないのに、和尚のつくる蕎麦切は、練り方の加減か、蒸し方の加減か(享保の頃は、さっとゆでた後蒸していた。今、もりそばやざるそばを蒸籠【せいろ】に盛るのはその名残り)、味ははなはだ佳良で・・・食通連は、我れも我れもと押しかけて・・・」(矢田挿雲【江戸から東京』】

 では、次の川柳は何を詠んでいるか。

              「今行くとどうこ庵から人を出し」

 行先は、浅草から近い吉原。登楼する前に食べるのは蕎麦が粋、ということになっていた。女房に内緒で吉原へ行く口実にも利用された。

              「道光庵内証客はあしを出し」

 悪いことはできないもの。来院者の多い道光庵で顔見知りに出会い、嘘がばれてしまったのだ。

 しかし、子院が茶店のようになった状況に親寺・称往院もついに動く。道光庵の宗門としての精進を妨げると、天明元年(1781)蕎麦禁断の碑を門前に建て、道光庵での蕎麦振舞いを停止させてしまった。

 道光庵での蕎麦打ちは約半世紀で打ち切られたが、その名声にあやかって屋号に庵号をつけるそば屋が現れた。「東向庵」(鎌倉河岸)、「東翁庵」(本所)、「紫紅庵」(目黒)、「雪窓庵」(茅場町)。現在も「長寿庵」をはじめ多くのそば店が庵号を名乗るのは、道光庵の栄光の名残なのだ。

 ところで、称住院は現存するが場所は浅草ではない。世田谷区北烏山の寺町通りにある。関東大震災後にこの地に移った。「不許蕎麦入境内」の石碑も門前に建っている。

 (蕎麦切りの振舞い『絵本浅紫』)道光庵での様子を描いたとされているが、おそらく大きな蕎麦店だろう

(寺前蕎麦 『絵本江戸土産』西村重長)浅草並木町

(称往院) 東京都 世田谷区北烏山5丁目9番の1号


(称往院の「不許蕎麦入境内」の石碑) 

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