江戸の名所「神田」⑦神田明神3神田祭
神田祭(神田明神祭礼)は、今は5月に行われているが、江戸時代は旧暦9月15日だった。山王祭とともに「天下祭」「御用祭」と言われ、江戸城に繰り込んで将軍の御上覧を得ることができた。 「山と田を二年に分けて御上覧」 「山」は山王祭、「田」は神田祭。延宝年間(1673~81)頃までは、毎年行われたが、その後、山王祭と隔年になった。三十六台の山車が湯島に勢ぞろいし、筋違門と神田橋門から城中に入り、夕方、常盤橋門から出た。
「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」
山車巡行の先頭は大伝馬町の諫鼓鶏(かんこどり)の屋台。「諌鼓鶏」というのは中国の故事に由来する鶏。昔、中国に尭帝(ぎょうてい)という聖天子が朝廷の門前に太鼓を置き、天子の政道に誤りがある時は人民にそれを打たしめてその訴えを聞こうとしたが彼の政治に誤りが無く、打つことが無かった為、鳥が太鼓に巣食う有様であったと言う故事である。「諫鼓苔深うして鳥驚かず」と漢詩にも詠まれ、天下泰平の象徴とされているおめでたい形なのだ。
神田祭の本来の目的は、明神様が乗る二基の神輿が、氏子町を渡御し、ご神徳によりそれぞれの町が清められることにあるが、江戸っ子が熱狂したのは山車巡行と附祭。「附祭」(つけまつり)というのは、本来、宮神輿渡御の付けたり(付録)という意味であるが、こっちの方が江戸っ子を興奮させた。江戸の祭礼では、附祭と通称することが多いが、全国的には練り物・通り物・曳き物などと呼ばれることもある。奇想天外な仮装行列に、派手な踊り、スターを雇っての音曲。
「附祭となづけて、左の町々より出しに添へて、踊りのねり物曳もの等を出す。年々趣向あらたにして、各花美を盡し、江府の繁昌此時としらる」(『東都歳時記』)
祭りの中心的担い手は鳶・若者・芸人・役者・職人・人足といった江戸の中・下層の一群だったが、彼らは神田祭を自己実現・自己表現の場として三度の飯より熱狂した。そして、二年間のたった一日に、練習時間と金銭を蕩尽したのである。
「借金をいさぎよくする祭まへ」
(歌川芳員「神田祭出しづくし」)
(歌麿「浮絵神田明神御祭礼之図」)
(楊州周延「千代田之大奥 神田祭礼上覧」)
(一の宮の神輿 『神田明神祭礼絵巻』)
(「諫鼓鶏」大伝馬町 『神田明神祭礼絵巻』)
(鬼の首(「大江山凱陣」)附祭 曳き物『神田明神祭礼絵巻』)
(踊り台 『神田明神祭礼絵巻』附祭)
(「浦島・龍宮城」異界の附祭 『神田明神祭礼絵巻』)
0コメント