江戸の名所「神田」④「湯女風呂」

  風呂好きで有名だった江戸っ子。江戸市中の湯屋(銭湯)の数は、文化年間(1804~18)には600軒を数え、江戸っ子にとってなくてはならない存在となっていた。この湯屋の開業は、天正十九年(1591)。徳川家康入府の翌年だ。場所は、日本橋の西、銭瓶橋(現在の呉服橋付近)のたもと。始めたのは伊勢からひとかせぎをもくろんで出てきた与一という男。さすがは伊勢商人の血をひくだけのことはある。目の付け所が違う。どういうことか。

 その頃の江戸は、開発・改造の最中であり、建設に従う多くの人々にとって、砂塵や労働の汗を清めるための大衆浴場が必要であった。また、銭瓶橋の一帯は、隅田川・日本橋を経て、全国から船便による建設資材が運ばれ、その荷揚げ地ととして賑わっていた(神田の鎌倉河岸もすぐ近く)。与一はここに目を付けたのだ。

「風呂銭は永楽一銭(永楽通報一枚)なり。みな人めずらしきものかなとて入りたまいぬ。されどもその頃は風呂ふたんれん(なれない)の人あまたありて、あらあつ(熱)の湯の雫や、息がつまりて物もいわれず、煙にて目もあかれぬなどと云て・・・」(三浦浄心『慶長見聞集』)

 当時の銭湯は現在とは違って、蒸し風呂だったようだ。その後、この銭湯にあやしげな気配が漂ってくる。

「今は町ごとに風呂あり。・・・湯女といいて、なまめける女ども廿人、三十人並びいて垢をかき、髪をそそぐ。」(同上)

  このような「湯女風呂」が発達したのは、神田界隈や江戸城の外濠をとり巻くところ(道三橋付近、鎌倉河岸あたり)、すなわち武家屋敷周辺である。江戸に単身赴任の勤番武士には、こうした施設は無聊(ぶりょう)を慰めるために欠かせない場所だったようで、幕府も、建前上はこれを禁じたが、各藩とも見て見ぬふりだった。 湯女風呂の中でも有名だったのが「丹前風呂」。その名前は、越後蒲原郡村松の領主で、三万石の堀丹後守の屋敷前にあったことに由来。綿の入った広袖の長着「褞袍」(どてら)を「丹前」と言うのも、丹前風呂に通う遊客の粋な着物を、丹後守の屋敷前で見られることからそう呼ばれるようになった。

 これを考案したのは、この丹前風呂の湯女だった勝山。彼女は派手な出で立ちで評判になっていた。「勝山髷」を考案したのも彼女。この髷の特徴は、束ねた下げ髪をくるっと前方に曲げて、輪を作り、その毛先を髷の中に折り返して、根に白元結(しろもとゆい)をかけるところ。武家の雰囲気ただよう男前な髪型で、のちには遊女に限らず一般女性にも広まり,元禄ごろ盛んに結われた。勝山は、この髷姿で腰に木刀の大小を挿して派手な縞の綿入れ(「丹前」)を着て歩き回り、江戸の若い女性達はこぞって彼女の風体を真似たといわれる。ちなみに勝山は、後に吉原に身柄を引き渡されて遊女となり最高位の太夫にまで上り詰めた。

 (『江戸名所図屏風』 湯女風呂)江戸時代初期の寛永年間(1624~43)頃の江戸を描いている

(岩瀬百樹『歴世女装考』寛永頃の江戸の湯女)

(国貞「古今名婦伝 丹前風呂勝山」)


(岩瀬百樹『歴世女装考』「勝山髷之詳図」)


(揚州周延「時代かがみ 享保の頃」) 勝山髷

(国貞「名妓三十六佳撰 勝山」)

(渓斉英泉「松葉屋内 かつ山 ますき こはる」)

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