江戸の名所「神田」③駿河台

 元は「神田山」または「神田台」と言ったが、徳川家康の死後、家康に仕えていた駿府(静岡市)詰めの武士がここに居住したことから「駿河台」と称されるようになった(別説では、三代将軍家光の弟駿河大納言の屋敷がここに作られたためとする。他にも諸説あり。)。一帯は土取り場で、台地を削った土は日比谷入り江、日本橋、新橋の埋め立てに用いられた。もとは本郷台地と連続していたが、1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)が開削されたことで分離された。

 ところで、江戸には二つの「仙台堀」が在る。一つは深川の「仙台堀川」。仙台堀川は、竪川、小名木川と同様に人工的に開削された川で、清澄庭園の南側を東西に流れている。その名前は、かつて北岸に仙台藩の蔵屋敷が在ったことに由来する。もう一つの仙台堀が神田川で、現在の飯田橋駅付近から秋葉原付近までの工事を仙台藩主・伊達政宗が行ったことから「仙台堀」と呼ばれるようになった。

 かつて駿河台から西に見える富士山の眺めは素晴らしく、多くの浮世絵師たちによって名所絵が描かれた。しかし、昭和46年(1971)の京王プラザホテルを皮切りに、新宿の淀橋浄水場跡地に高さ200メート前後の高層ビル群が建設され、現在は路上から富士の眺めは望めない。

 江戸時代、見晴らしがよいことから、この地に置かれていたのが「定火消」(じょうびけし)屋敷。火の見櫓も高くそびえていた(国貞「江戸名所百人美女 するがだい」のコマ絵に描かれている)。定火消は、大名火消・町火消と異なり、幕府直属の火消。明暦の大火により大名火消程度では対応できないことを痛感した幕府は,その翌年の万治元年(1658)定火消を創設。4名の旗本に火消屋敷を与え,火消人足を抱えるための役料三百人扶持を給し,与力6名,同心30名をそれぞれ付属させた。宝永元年(1704)十組となり、これが永制となったため「十人火消」ともいう。その拠点となったのが「役屋敷」。そこには、役目に就いた旗本とその家族や家来の他に、実際に消火に当たる与力や同心、「臥煙(がえん)」と呼ばれる火消人夫が大勢居住。彼らは町火消同様、命知らずの男気を売りにしていたので、この屋敷の雰囲気も普通の武家屋敷とは随分異なっていたようだ。明治になって、この屋敷の跡地に建てられたのが「ニコライ堂」(正式名:日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂)。コンドルの監督設計で、明治17年(1884)に工事が始まり、約7年かかって明治24年(1891)に完成した。

 駿河台に住んでいた旗本で忘れちゃいけないのは、小栗上野介(1827~1868)。彼が生まれ育ったのは、お茶の水駅からほど近い所にある東京YWCA会館の建物がある場所にあった旗本屋敷。幕末の外交・財政政策をリードし、横須賀に大造船所を建設してわが国の造船業が近代化する道を開いたが、強硬派だったため失脚し上州に隠遁。1868年、倒幕軍によって斬首されてしまう。勝海舟の最大のライバルと呼ばれ、司馬遼太郎は「明治の父」と記した。幕府側の人間で、明治になっても生き続けてほしかった代表的人物。彼のようにはっきりものを言い、進取の気性に富んだ人物を産んだのもこの神田駿河台と言う場所だったように思えてならない。

 (広重「不二三十六景 東都駿河台」)江戸城と富士山の位置は、実際は左右反対

(国芳「東都名所駿河台」)

(北斎「富嶽三十六景 東都駿台」)

(広重「名所江戸百景 水道橋駿河台」) 本郷台からの眺め

(国貞「江戸名所百人美女 するがだい」)コマ絵に

(ニコライ堂 1891年)

(小栗上野介)

0コメント

  • 1000 / 1000