江戸の名所「神田」②三河町と鎌倉町

 「三河町の半七」と言えば岡本綺堂『半七捕物帳』の主人公の岡っ引き(正確には「御用聞き」)半七親分。日本橋の木綿問屋の通い番頭の息子だが、奉公先で道楽の味を覚え、放蕩三昧の生活の後、18歳(1840年)で神田三河町の御用聞き吉五郎の手下となる。そして吉五郎一家で頭角をあらわし、吉五郎が病死した後、遺言により一人娘のお仙と結ばれ、御用聞きの跡目を相続。以後、「和製シャーロック・ホームズ」ばりの活躍を見せる。それだけじゃない。江戸の風俗、季節感、空気を知るにはもってこいの作品である。

 この半七が住んでいた三河町は江戸でもっとも古い町の一つ。その名前は、天正十八年(1590年)の徳川家康入府のとき、一緒に来た三河の武士たちが住んだ場所であることに由来する。そして慶長年間(1596年~1615年)にこの武士が下谷に移ったあと町人町となる。1丁目から4丁目まであり、町域は現在の東京都千代田区内神田1丁目と神田司町2丁目付近および神田美土代町の一部にあたる。現在の街並みは昔の面影をとどめないが、唯一「御宿稲荷」が当時の場所に残っている。この名前も、家康が関東移封の際、ここで宿をとったことに由来する。

 三河町に隣接していたのが「鎌倉町」と「鎌倉河岸」。今も「鎌倉河岸ビル」と言う名のビルが建っている。この「鎌倉」の名も江戸城建設に関係している。慶長八年(1603年)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備と城の普請に乗り出す。そのため、多くの材木石材が相模国(現在の神奈川県)から運び込まれた。そして、築城に使う建築部材を取り仕切っていたのが鎌倉から来た材木商たちだったことから、荷揚げ場が「鎌倉河岸」(現在の神田橋付近)と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたと言われる。

 こうした普請に関わる職人などを対象に安価で下り酒を提供したのが「豊島屋」(現在は、神田猿楽町にある)。創業者の十右衛門は鎌倉河岸で慶長元年(1596)に酒屋兼居酒屋を始め、豊島屋は東京における最古の酒舗とされる。十右衛門は白酒作りも始め、その評判は江戸中に広まる。甘くねっとりしたお米のリキュール白酒は、当時の女性にも大好評で「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」とまで詠われた。

 桃の節句に白酒を飲む風習は豊島屋が発祥。毎年桃の節句前の2月25日に行われた白酒の大売出しでは江戸中から人が押し寄せ、風物詩となった。この様子は長谷川雪旦の『江戸名所図会』「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商ふ図」に詳しく描かれている。

「例年二月の末鎌倉町豊嶋屋の酒店(しゅてん)に於て、雛祭の白酒を商ふ。是を求んとて遠近の輩、黎明より肆前(しぜん)に市をなして賑(にぎは)へり」

 豊島屋は、酒のつまみとして「豆腐田楽」(味噌を豆腐に塗った後に焼いて供する)を安く提供て人気を博したり(居酒屋のルーツとされる)、空いた酒樽を味噌屋等に販売して利益を出すことで酒を仕入れ値のままの安値で販売するなどベンチャー精神に富んでいた。

(国貞「弥生 十二月ノ内 雛祭」) 

雛祭には白酒がかかせないようになったのは豊島屋が売り出してから

(豊国「大極上ふじの白酒」)

(鳥居清長「戯童十二候 雛祭」) 子どもも白酒を飲んだ

(鳥居清長「中村彦太郎の禿、 三代目市川八百蔵の助六、 二代目市川門之助の白酒売」)

歌舞伎役者ふんする白酒売りも多くの浮世絵で描かれた

(江戸切絵図 日本橋北神田浜町絵図 ) 三河町と鎌倉町は左端に載っている

(『江戸名所図会』鎌倉町豊島屋酒店)


 

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