江戸の名所「浅草」⑨待乳山聖天(まつちやましょうでん)
池波正太郎は随筆の一節でこう記している。
「 生家は跡形もないが大川の水と待乳山聖天宮は、私の心の故郷のようなものだ 」
池波正太郎が生まれたのは大正12年1月25日( 1923 )。この年の9月1日、未曽有の大災害が発生する。関東大震災だ。正太郎は両親と共に埼玉県浦和に引越すので、その地に住んだのは7カ月ほどだったが、何かを彼に刻み付けたのだろう、その小説にちょくちょく登場させている(例えば、『鬼平犯科帳』の船宿「嶋や」。待乳山下の今戸橋近くにあったが、気のきいた板前がいて、ちょいとうまいものを食べさせるというので、平蔵はひいきにしていた)。
待乳山聖天は、現在は隅田公園内にある小さな丘の上にあるが、かつては下町唯一の高台として東に筑波山、西に富士山をのぞむことができる絶景の景勝地だった。
「待乳山いまでは猪牙の目あてなり」
「猪牙」とは猪牙舟。猪の牙のように、舳先が細長く尖った屋根なしの小舟の高速艇。この川柳の猪牙舟、どこへ向かうのか。吉原である。吉原へ舟で行く場合、新橋あたりの船宿から猪牙舟で隅田川をさかのぼって山谷堀に入り(猪牙舟は別名「山谷舟」と呼ばれた)、ここから徒歩で日本堤を進んで大門口まで行った。この山谷堀へ入る目印にしたのが待乳山だったというわけだ。
日本堤(通称「土手八丁」。こんな川柳もある。「織り姫に呼ばれて歩く土手八丁」)は、この待乳山の土を削りとって造ったとも言われるから、かつてはかなり大きかったのだろう。待乳山は「真土山」とも書き(『江戸名所図会』など)、その由来は、かつてこの辺り一帯は泥海だったが、ここだけが真の土であったこととする説がある。
ところで、鳥居清長の作品に「江戸八景金竜山暮雪」がある。描かれているのは、浅草寺ではなく明らかに待乳山聖天。どういうことか?浅草寺の山号は「金龍山」だが、これは浅草寺の支院のひとつである待乳山聖天に関わる。ここは推古天皇の御世、地中から忽然湧き出た霊山で、その時、金龍が天より降って山を廻り守護したと伝えられているのだ。待乳山聖天の正式名は「本龍院」。手水舎の水口はもちろん龍。本堂の天井には堅山南風による墨画の龍が描かれている。
ここは紅葉の名所でもあった。北斎の代表作『隅田川両岸一覧』に紅葉の待乳山聖天の風景を描いた「待乳山の紅葉」がある。そこに添えられた和歌。
「待乳山紅葉の日和見定めて 居続はせぬ朝かへり」
紅葉狩りは遊郭通いのかっこうの口実にされていた。そりゃあ、吉原に居続けたら誰も紅葉狩りに行ったなんて信じないだろう。どんなに遅くても翌朝までには帰らなきゃ。
池波正太郎はここの近くで生まれたが、この近くで死んだのが北斎。生涯で93回引っ越したと言われる北斎だが、晩年は待乳山聖天の近くにあった遍照院の仮宅で過ごし1849年89歳の生涯を終えている。
(旦霞「真乳山望冨岳」)部分
(清長「江戸八景金竜山暮雪」)
(広重「東都名所 真乳山之図」)
(広重「東都名所 真乳山之図」)近景に猿若町(芝居町)、中景に浅草寺、遠景に富士山
(北斎『絵本隅田川両岸一覧』「待乳山の紅葉」)
(二代広重「東都三十六景 今戸橋真乳山」)
(鳥居清長「待乳山の雪見」)
『(江戸名所図会』「真土山聖天宮」)左上の広い通りが日本堤
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