江戸の名所「浅草」⑧歳の市

 12月17日から19日は浅草歳の市。その歴史は古く、両国橋が架けられた万治元年(1659年)頃とされる。扱っていたのは日常生活用品の他に新年を迎える正月用品。やがてそれが主になり、そこに羽子板が加わり華やかさが人目をひくようになる。その華やかさから押し絵羽子板が「市」の主要な商品となり、いつしか「羽子板市」といわれるようになった。

 江戸時代の浅草歳の市の賑わいぶりは多くの浮世絵、川柳で知ることができる。雷門から仁王門の仲見世は言うに及ばず、境内すべて露店で埋め尽くされた。

     「市の人ひとより出て人に入り」     「鳩も豆喰ふ隙も無き市二日」

 江戸時代は12月17日、18日の二日間。露店が出たのは、境内にとどまらなかった。『東都歳時記』にこうある。

「当寺境内は云うに及ばず、南は駒形より御蔵前通り、浅草御門迄、西は門跡より下谷車坂町・上野黒門前に至る迄、寸地を漏らさず仮屋を補理し、・・・」

 まだ深川八幡(12月14日、15日)や神田明神(12月20日、21日)の歳の市がなかったころの浅草観音の歳の市の繁盛混雑はすさまじく、老人や婦女子はとても通行できないほどだった。それでも、明和・安永の頃から女性も参加するようになる。

               「市へ立つ女房は髭の無いばかり」

 髭が無いこと以外は男と変わらない姿、つまり男装して出かけたことをよんでいる。混雑に紛れて出没した痴漢対策である。市で商われていたのは台所用品(俎【まないた】、柄杓【ひしゃく】、手桶、擂粉木【すりこぎ】)、神棚飾り、遊び道具など。           

      「浅草の二日は江戸の台所」       「擂粉木を帯し手桶を頬かむり」

               「神の物仏の庭で買って来る」

 最後の句は神棚飾り、御神酒徳利を浅草寺で買うことを詠んだもの。では以下の川柳は神棚に飾ったある物を詠んでいるのだが、何か。

      「市みやげおめへの程と下女ぬかし」   「市みやげ娘貰って放り出し」

 これは神棚に置く男根張形(模造)の金精様(金精大明神【こんせいだいみょうじん】)。遊郭や商家では「今日もたくさんの客が来ますように」と「招客」のご利益を願って拝んでいたようだ。しかし、そのような特定の商売にだけ関係していたわけでない。

 造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられていた六義園。五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園だが、吉保の孫で大和国郡山藩第二代藩主の柳沢信鴻(のぶとき)は、50歳で隠居してから69歳で亡くなるまでここ六義園で過ごした。彼は亡くなる間際まで『宴遊日記』・『松鶴日記』と呼ばれる日記を毎日欠かさず書き残したが、その中に歳の市の記述もある。信鴻は、安永5年(1776)から亡くなる直前の寛政3年(1791)まで、ほとんど毎年観音参詣を兼ねて家臣10名ほどを連れて歳の市に出かけ物品を買い求めている。安永6年からは「金精様」も含まれるようになった。彼はそれを4,5本も購入し、その他の台所用品とともに家臣たちにかつがせて帰邸し、側室やお気に入りの侍女、家臣に与えている。

 この「金精様」の発売。実はあの平賀源内の創案によるようだが(『俗事百工起源』)、明治5年に政府が太政官令で禁止した。

「従来遊女屋其他、客宿等に祭りある金精儀、風俗に害あるを以て、自今早く取棄て、踏み潰すべし」

 野暮なことをするもんだ、国家っていうのは。これも近代化なんだろうか。性に関して今の時代、とても江戸時代より健全になったとは思えないのだが。

 (広重「東都名所 浅草金竜山年ノ市」)

(広重「六十余州名所図会 江戸 浅草市」)

(『江戸名所図会』 「十二月十八日年の市」)

(浅草歳の市『絵本物見岡』)

(「手造気利酒」勝川春潮画)

手桶をかぶり、腰に大きな杓子(しゃくし。しゃもじ)をさした主人と、擂粉木に輪じめをかけ、左手に注連縄を持った使用人


(広景「江戸名所道化尽 浅草歳の市」)

箒やしゃもじ、すりこぎ、男根、おかめの面などを組み合わせて作った、夫婦和合を願う巨大な飾り物を運び出そうとしていたところ、風雷神門(雷門)の巨大な提灯にぶつかってしまい、崩れ落ちたところを滑稽に描いている

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