江戸の名所「浅草」⑦「奥山の見世物小屋」3 深井志道軒

 桜綱駒寿の蝋燭渡りの曲芸、松本喜三郎の生人形による「西国三十三所観音霊験記」とともに、トリップできるなら江戸の浅草奥山で見て見たいもののひとつが深井志道軒の辻講釈。この志道軒。延宝8年(1680)生まれで明和2年(1765)に86歳で没している。今ではほとんど知られていないが、当時の人気はすさまじかった。何しろ「天下に名高き者は、市川海老蔵と志道軒と唯二人より外なし」と言われるほど。この市川海老蔵は後の二代目市川団十郎。荒事の骨法を基本にしながら、和事風のやわらか味をも取り入れ、『助六』『矢の根』『毛抜』など、のちの歌舞伎十八番に含まれることになる新しい荒事芸を創始。それが当時の江戸文化の気風と合って、絶大な人気を集めた「不動の申し子」(初代団十郎が成田不動尊に祈願をこめて、授かった子であるという噂からこう呼ばれた)。この二代目団十郎と天下の人気を二分した志道軒。平賀源内も風来山人のペンネームで、滑稽本「風流志道軒伝」(浅草観音の申し子志道軒こと浅之進が,仙人から授けられた羽扇に乗って世界中を飛び回って諸国漫遊するストーリー。諸国の遊里を訪れ,さらに大人国や小人国等を経て女護島に漂着の末,気がつくと浅草寺内で講釈を始めようとしていたという筋で、滑稽を交えて風俗・人心を風刺)をあらわした。志道軒とは一体どんな人物だったのか。

 往来や社寺の参道などで軍談などを語って聞かせ、聴衆から銭をもらうのが辻講釈だが、彼の辻講釈はそれまでの講釈一辺倒の「実講(じつこう)」とはまるで違っていた。合間合間に、過激なフリートークを交える「狂講(きょうこう)」。扇子に代えて奇っ怪な棒(陰茎の形)を振り回してトントントトンとやりながら、身振り手振りのパフォーマンス。公儀をもおそれぬ当世批判、人前をはばからぬ猥談、人を食ったほら話を繰り広げた。しかし、それだけなら平賀源内が滑稽本の主人公にしたり、太田南畝や山東京伝が書物に取り上げたりはしない。かれはもとは真言宗の僧で大僧正隆光の侍僧。仏典を読みこなして得た知識に加え、神道、儒教にも通じていた。つまり彼の講釈は非常に高度な教養の裏付けがあった。 男色か、女色かははっきりしないが、色事にふけりすぎて還俗。貧乏長屋暮らしを経て、60近くになって浅草に現れたときには聖俗に通じていたのだろう。過激な政治批判にもかかわらずお縄にならずに済んだのも、彼のしたたかな計算による。みずからを狂人と称し、長屋の大家もそのようにお上に届を提出し、危機を避けたのだ。なんとも痛快な人物。辞世の句も、いかにも志道軒らしい。 

        「穴を出て穴に入るまで世の中にととん頓着せずに楽しめ」 

(石川豊信「講釈場の深井志道軒」)部分

(奥村政信「古戦物語 講師志道軒」)


(深井志道軒 『風流志道軒伝』より) 手にした陽物がトレードマーク

(脚長国の志道軒こと浅之進 『風流志道軒伝』より)

 脚長国で泥棒に遭遇した図。コンビを組んで暮らしている脚長族と手長族の2人組が魔法の団扇を狙って屋根から手を伸ばしたので浅之進が手を斬ろうとしている。

(国貞「二代目市川團十郎の暫」)隈取りの様式性を完成させたのも二代目市川團十郎

(豊国「歌舞伎十八番」)

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